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進化論と聖書信仰は両立できるか 2

1.進化論と創造論をめぐる主な立場

 進化論と創造論をめぐっては、主に以下のような立場に分類される。

1 無神論的進化論
 進化論は科学的事実であり、人間も進化したもので、神が創造したものではない。従って神は存在しない。

2 若い地球の創造論(いわゆる創造科学)
 創世記1章の「1日」を文字通り24時間と解釈し、神は7日間で宇宙を創造したとする。
また聖書の系図をそのまま計算して人類の歴史は6000年から1万年程度と考え、宇宙の年齢も1万年とする。
 つまり科学的事実をまっこうから否定する。
 ヘンリー・モリスによって設立されたCRS(クリエーション・リサーチ)が有名。日本支部はCRJ(クリエーション・リサーチ・ジャパン)。
 また、聖書や神については全く触れずに、「知的デザイナー」の存在を主張する「インテリジェント・デザイン論(ID論)」という主張もあるが、創造論に科学的な装いをしただけである。
米国ではDiscovery Instituteという団体がある。日本では創造デザイン学会という団体があるが、これは統一教会系の団体である。

3 古い地球の創造論(進化論には懐疑的)
 創世記1章の1日は24時間ではなく「時代」と考え、宇宙の年齢や地球の年齢の科学的事実は、聖書と矛盾しないとし、「創造科学」に批判的。むしろ科学的事実が神の存在と創造を証明すると考える。進化論については懐疑的である。
 天文学者ヒュー・ロスが多くの本を出版している。邦訳もあり。

4 有神論的進化論
 科学と聖書は共に真理であると主張。3と近いが、神が進化のプロセスを用いたとする。もしくは、その可能性を否定しない。
 遺伝学者で国際ヒトゲノム計画のリーダーであったフランシス・コリンズや、進化生物学者のフランシスコ・J・アヤラ、オックスフォード大学の分子生物学者で神学者のアリスター・E・マクグラスなどの書籍が邦訳出版されている。

5 聖書と科学は異なる領域とする
 聖書はあくまでも宗教的な書物であり、科学的事実とは関係ない。
 創世記の創造物語は事実ではなく、宗教的真理を述べているもの。

 ドーキンスらの無神論者が辛辣に批判するのは、2の「若い地球の創造論者」のグループとID論であり、3、4のグループは、ドーキンスの宗教についての無知と偏見を批判すると共に、1のグループの科学を無視する考えをも同時に批判している、というのが現在の状況である。

 ここで「創造論」という言葉について注意すべきことに触れておこう。聖書では神が宇宙、生物すべてを創造した、と述べている。この点については、ほとんどのクリスチャン、キリスト教派で異論はない。しかし「創造」がイコール「反進化論」ではない。今述べてように、進化を用いて創造したと考える人々もいるのである。クリスチャンはある意味で皆「創造論者」であるが、皆が「反進化論者」ではない。

 これ以降は、特に断りの無い限り、「若い地球の創造論」をはじめとする「反進化論」を「創造論」と呼ぶことにする。

ダーウインと「種の起源」

 そもそも進化論を提唱したダーウィンの「種の起源」は、150年前に書かれたにもかかわらず、非常に優れた書物である。学術書ではなく一般向けに書かれたもので、日本語でも最近の翻訳で読めばわかりやすい。
 生物学に疎い私には多少難しいところもあるが、そんな私でもダーウィンの科学的に誠実な姿勢には感銘する。彼は詳細な実験と観察の結果から、自説を丁寧に説明しつつ、自説の難題、弱点についてひとつずつ厳密に検証している。特に化石の少なさと中間種が見受からないこと、そして目の様な複雑な器官が自然淘汰だけで出来上がったということが、多くの人に受け入れ難いという事実に正直に向き合っている。
 まだ遺伝子も見つかっていない頃だったが、いまやゲノムの研究によりダーウィンの説が証明されようとは、なんという先見の明であろう。
 
 進化論が発表された当時もある人々が反発したように、神を否定すると考えられた。人間が、偶然と自然淘汰により下等動物から進化したならば、聖書は神話であり、神による創造の否定、ひいては神の存在の否定と受け取られた。

 ダーウィンが主張したのは、神が生物を種毎に創造したとする、特殊創造説(もしくは個別創造説)では、観察される生物の多様性や特徴を説明できず、変異と淘汰による説明が最もよく説明できるということある。

それでは、この特殊創造説、個別創造説とは何か?

 それは創世記1章、2章の字義的解釈を科学的真理とみなすひとつの聖書解釈から生まれた。
創世記には、神が命じることで植物、動物、魚、鳥などが造られた、そして最後に人間を造られたと書いてある。これを字義通りに解釈すれば、神がそれぞれを個別に神が造った、つまり鳥は最初から鳥、猿は最初から猿、人は最初から人の形に造ったと解釈できる。特に人は神に似せて造られた、すなわち他の動物とは違うのだ。

これが個別創造説であり、ダーウィンはこれでは生物界を科学的に正しく説明できないと主張したのである。
 ダーウィンは「種の起源」の中で、進化論のほうが「造物主(原文はcreater)が物質に課した法則に関するわれわれの知識とうまく一致する」(チャールズ・ダーウイン著、渡辺政隆訳「種の起源」光文社 2010年 下巻P401)と述べている。彼は神の存在を問題にしているのではなく、ただ進化論のほうが、合理的、科学的であると言ったのである。

 しかし、この自然淘汰による進化は、「創造主」すなわち神の直接的関与無くして生物が生まれたことを意味するため、「創世記1章の字義的解釈」と矛盾すると考えた一部のクリスチャンは、すぐさま進化論と信仰は相いれないと考えたのである。
また無神論者も同様に、進化論が信仰と相いれないことから、信仰への攻撃に進化論を利用した。

この「創世記1章の字義的解釈」というのが後に重要なポイントになるので覚えておいて頂きたい。


無神論的進化論

 無神論に立つ人々は、進化は目的もデザインも無い自然現象として説明できるので、神を持ち出す必要な無いと考える。そして神を持ち出す人々は「隙間の神(ギャップの神)誤り」に陥っているとする。「隙間の神誤り」とは、わからないことはすべて神の業として片付けてしまうことを言う。科学が進歩して分からなかったことが分かるようになると、神の居場所は無くなってしまうという訳だ。
 今は分からないこともいつかは科学が明らかにする。説明に神は不要で、世界の真理を明らかにするのは科学のみだと考える。創造論者、特にID論者は「隙間の神誤り」に陥っていると批判される。

 これは確かにそう通りである。科学的探求に神を持ち出しては何の意味も無い。科学とはそういうものだ。しかし、科学の説明に神を持ち出さないことと神の存在とは別であることに注意して欲しい。神は「分からないこと」を説明するだけの神では無い。この驚異的な宇宙を作り、物理法則を作られたのは神であり、すでに科学で解明されていることについても、神の存在とその知恵と力を認めるには十分である。すべての自然現象が科学によって説明されたとしても、その法則を作られ、保持されているのは神であるというのがキリスト教信仰であり、「科学によってすべて説明できれば神は必要ない」ということではない。

 フランシス・コリンズは「隙間の神」批判に対してこう述べる。

「神を信じる良い理由は他にいくつもある。美しい数学的原則の存在や創造における秩序などもその一つだ。..知識の欠如を何でも神の業に帰するのとは違う。」(ゲノムと聖書 P91)

つまり、人間の知恵により解明された科学的事実が、むしろ神の存在を裏付けているのだ。

 ドーキンスなどの無神論者が神を否定するのは、純粋に科学的結論でなく別の理由もある。特にドーキンスの場合は過度な宗教への偏見が見られる。 彼は著書の中で、宗教の行ってきた悪や一部の人々の非科学的思考などを批判しているが、無神論共産主義がどれほど非道な残虐行為を行ったかということには一切触れない。また彼は「真の科学者は無神論者でなければならない」という強固な信念を持っている。
アリスター・マクグラスは、神を信じる科学者が40%いるというデータを挙げ、「自然は無神論的にも、有神論的にも解釈可能である。」と述べ、「無神論という前提は科学に基づいているというよりも、無神論者である科学者が科学へと無神論を持ち込む」と指摘する。(「神は妄想か」P55)

全米科学アカデミーのHPでは、「科学と宗教の互換性」と題して、科学が知識の唯一の方法ではないこと、宗教と科学は異なる役割を持つことを主張している。

若い地球の創造論(いわゆる創造科学)

 「若い地球の創造論者」(ヤング・アース派とも呼ばれる)は、私の若い頃日本の福音派の中でも活発に活動していた。前に述べたように、聖書を信じること=進化論を否定することであり、信仰告白は創造論信仰=反進化論信仰を含むものであった。
 確かに生命の複雑さ、精密さを知れば、それが偶然に生じたと信じるのは感覚的に難しい。それは神の知恵によるものであり、進化論は聖書に反する=神を否定するものだ、と教えられれば納得させられてしまう。しかし感覚的に信じられないことと事実は違うことが多い。地球が丸いということを知らなければ、我々がものすごい速さで(赤道直下で時速1600km)自転する球の上に乗っているだなんて信じられないだろう。動いているときには時間の進行が遅くなる、なんて相対性理論が証明されなければSFの話でしかない。あり得ないようなことも科学が証明してきた。
 一方でクリスチャンは、イエスの奇跡や復活など、それこそあり得ない話を信じている。もしそれらのあり得ない話を信じる合理的な根拠があるならば、進化のあり得なさを信じる合理的根拠にも目を留めるべきである。しかし彼らはこのような公平な立場を取ることなく、創世記と進化論が一致しないならば、進化論が間違っているという前提に立っているからだ。

 創世記がなぜ進化論と一致しないと考えられるのか。それは創世記では天地創造が6日間でなされ、長い期間の進化ではなく、一瞬で神がそれぞれの種を個別に創造したと解釈されたからだ。

 それは創世記の記述を字義通りに解釈した場合である。字義通りに解釈するようになったのは、わずか100年程前からであり、アウグスチヌスをはじめ古代から保守的なクリスチャンでも文字通りの解釈はしていなかった。6日間の創造の「日」ということばは、ヘブライ語では「時代」等の長い期間をも意味していることは昔から知られていた。この「日」が24時間でなく、数億年、数十億年の期間を意味するなら、地球の年齢を46億年とする科学的事実と矛盾しない。
 また彼らの字義的聖書解釈では、天地創造は6000年前であるという(これは聖書中の人物の系図にある年齢を合計した数値らしい)。宇宙の年齢は130億年とする近年の科学的事実と明らかに矛盾する。考古学においても、数万年前の文明が発見されている。
 そこで彼らは、「見かけ上の年齢」という奇妙な考えを編み出す。神は宇宙を130億歳の状態で造ったというのである。何十億年かけて宇宙の果てから地球に向かっている光は、その瞬間の状態で創造されたというのだろうか。

 日本の福音派の中でも有名な学生伝道団体の責任者が、この主張に疑問を持ち創造論から身を引いたといい、思っていた以上に「創造論」はキリスト教界においても劣勢になりつつあるのではないか。 科学的思考を身に着けたクリスチャンほど創造論から距離を置いていくだろう。最悪の場合は信仰をそのものを疑問視してしまうことも有りうる。

 「神は何でもできる」と言ってしまえばそれでおしまいだが、神がそんなことをして「偽の宇宙」を造る理由は全くわからない。最近では「ホワートホール説」というものを持ち出してきて、地球と宇宙の端では時間の流れが違う、というようなことも言い出している。そこまでして科学的理論を否定して自分たちの聖書解釈に固守する必要はどこにあるのか。むしろ、ほんとうに聖書は天地創造を6000年前と言っているのか、あるいはそれが聖書が我々に伝える重要なメッセージなのかと、どうして問い直さないのだろうか。

 IPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授とノーベル物理学賞を受賞した益川教授の対談(「大発見」の思考法 文春新書)の中で、山中教授が、「生物学をやっていると、これは神様しかできない、と思うことがたくさんある」という発言に挑戦するように、益川教授が「僕は積極的無宗教」だと言い、「どの宗教も入信させるのに嘘を言ってもいいことになっている」というあきれた発言をしている。嘘の一例として、「聖書には人間の歴史は6000年と書いてある」というのである。もちろん聖書にはそんなことは書いてない。ノーベル賞科学者であっても、聖書を読まずに創造論者の主張を鵜呑みにして誤った認識を持ってしまうのである。  
 

古い地球の創造論(進化論には懐疑的)

 創世記を文字通りに解釈はしないが、やはり進化はありえないと考える人たちもいる。
 つまり創世記の1日は24時間ではなく、宇宙は130億年前に生まれ、地球は46億年前に生まれたという科学的事実を受け入れる。天文学者ヒュー・ロスは、創世記を正しく解釈すれば、科学と創世記は一致しているという。もし、聖書と科学に食い違いがあるならば、人間の解釈が間違っているのであり、さらに研究を進める必要があると受け止めるべきである、と指摘する。(「宇宙創造と時間」)ヒュー・ロスは、宇宙が生命が生まれるためにいかに精密に微調整されているかを論じ、神の存在を論証するが、進化については、やはり時間が足りないと結論する。しかし神が進化のプロセスに関与したと考えるならば、進化論を認める立場と結局は同じになるかもしれない。(ただしその関与の仕方が、科学的に立証される必要があるが。)

 またある人々は、進化について論じなくても宇宙論や道徳論で神は証明できると考え、あえて進化論には踏み込まない。つまり彼らは進化論とは別の方法で神の存在を弁証しようとしているのである。
 確かにダーウィンやドーキンスが言うように長い時間を掛けて坂を上るようにゆっくりと自然淘汰が蓄積されていくには時間が足りないという異論もある。化石からわかるのは5億年前のカンブリア紀に突然生物が大量に出現していることで、ドーキンスと並ぶ生物学者のグールドは、「断続平衡説」を唱えた。人間のようなカメラ型の眼がどのように進化したか、まだ謎が多い。
 だからと言って生物学者たちの地道な努力を一笑に付すことは愚かだろう。私は個人的にはDNAにすべての謎を解く鍵が隠されているのではないかと思う。

有神論的進化論

 カトリック教会やリベラル派の教会、そして最近は一部のプロテスタント福音派においても、この立場をとる。それは科学的成果を尊重し、進化論を認めても、聖書の創世記の神の創造とは矛盾しないと考える。

 ガリレオは「我々に感性や理性、知性を与えた神が、それらを放棄することを望まれるとは思わない」と言うことばを残している。ガリレオも、当時の誤った聖書解釈と戦ったのであり、科学も信仰も捨てなかったのである。

 クリスチャンでゲノム研究の第一人者である、フランシス・コリンズは、「ゲノム研究の成果は、進化論に分子レベルでの裏付けを与えた」と言っている(「ゲノムと聖書」P135)。しかし同時に「DNAの暗号としての美しさは何と味わい深いものであろうか!・・神を信じる者にとって、ますます畏怖を覚えることはあっても、失望することはないのである。」(同書 P103)と述べる。
 もちろん彼は、聖書を神のことばと信じている。そして自身の信仰と科学に対する考えを「バイオロゴス」と名付け、バイオロゴス財団(http://biologos.org/)を通して広めている。

これが科学的真理と宗教的真理を正しく扱う態度かもしれない。

 聖書の独断的解釈を保留し、創造に数十億年の時間を許すならば、神が進化のプロセスを自然の中に造られたとしても不思議はないのである。
 私たちは一粒の種が地に落ちて、やがて芽を出し、きれいな花を咲かせるのを見る。これ自体驚くべきことであるが、これは自然のプロセスであり、奇跡でも超自然でもない。この自然のプロセスを造られたのが神であると認めるならば、進化のプロセスを神が造られたと認めることも可能なのではないか。

「他のプロテスタント神学者は、神が中間的原因を通じて働くという論証のなかに、進化と創造との間に存在する、表面的矛盾の解決を見た。惑星の起源や運動は神の創造や摂理を否定しないで、重力の法則や他の自然的プロセスによって説明できる。同様に進化は、それを通じて神が生き物を存在させ、自らの計画に従ってそれらを発展させた、自然的プロセスとして理解することができる。」
(フランシスコ・J・アヤラ 「キリスト教は進化論と共存できるか?」P130)

進化のプロセスが偶然であるならば、私たち人間の存在も偶然の産物なのかと思うかもしれないが、神にとって偶然は存在しない。(進化論も偶然だけで進化するとは言っていないが)

 それでは、「人が神のかたちに造られた」という聖書の記述をどう考えるのか。人間が動物と変わらないなら、神が人間だけその善悪を裁くのはなぜか。神のかたちという意味は生物学的意味ではないことは明らかだ。それは精神、または霊という領域に関する事柄であり、人間の知性、宗教心、道徳などは体の進化とは関係なく、霊が与えられていることが動物と人間の大きな違いなのである。無神論者は、このような精神の働きも、脳の働きによるものとし、進化によって獲得したものとする。
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進化論と聖書信仰は両立できるか 1

進化論と聖書信仰は両立できるか 1

「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ福音書6:30)

はじめに

 一輪の花の美しさに私は自然の素晴らしさを見る。しかも、それが小さな種や球根からいつの間にか芽を出し、やがて美しい花を咲かせる。この花のひとつも人間が作り出したものではない。私は自然の素晴らしさ、巧みさと、それを造られた神を賛美する。
 もちろん花が咲くのは奇跡でも超自然でも、マジックでも無い。科学が解明済みの自然の現象であり、ある意味当たり前の出来事でしかない。
 しかし「科学的に解明された」からと言って、「なんだ、そんなことだったのか」というマジックの種明かしをされたときのようながっかりした気分になる人はいない。いくら科学が解明したとしても、(いやむしろ解明されるほど)微生物から植物、動物に至まで、生命は驚くべき仕組みを持っていることに、そしてそれは人間が作り出したものではないことに、誰でも驚きを覚えるだろう。
 だからと言って、神が忙しく働いて常に奇跡を起こしているとは思わないし、妖精が見えないところで働いているとはもちろん思わない。あくまでも自然法則に従っているのだ。

 これら地球上の生物は、たった1個の細胞から、突然変異と自然淘汰により進化して、様々な種に枝分かれして進化してきたと考えられている。この「進化論」はある人々にとって、神が存在しない証拠とされている。特に神がすべてを創造したと書かれている聖書は神話だと証明されたと考える。

 果たして人間は自然の一部として進化した動物であって、神など存在しないのだろうか。聖書は単なる神話にすぎないのか。だとしたら聖書を神のことばと信じ、自らを神の子として全世界に多大な影響を与えたイエス・キリストは詐欺師か誇大妄想か、あるいは空想の人物なのか。
  
 リチャード・ドーキンスなどの無神論を標榜する科学者は、進化論のゆえに神は存在しない、宗教は盲目的で愚か、真の科学者は無神論である、と声高に主張する。ドーキンスの代表的な著書は「神は妄想である」、「盲目の時計職人」等多数邦訳出版されている。日本の科学者も、声高に主張はしないがそのような考えが大半であろう。

 一方で聖書を「誤りの無い神のことば」と信じる人々の一部は、生物は神が創造したのであって「進化論」は誤りで、聖書の創造論が科学的にも正しいことを証明しようとしている。「創造科学」や「インテリジェント・デザイン」の名で、特に米国で大きな運動になって久しい。ノンクリスチャンの間では、このような運動を見て、聖書は科学と相容れない神話、迷信であるという印象が根付いている。
 
 この対立構造が、アメリカで公教育における進化論と創造論の裁判沙汰などで注目され、聖書、キリスト教は非科学的である、という認識が日本でも行き渡っている。

 私が若い頃にはじめて行った教会は、聖書を極端に文字通り解釈し適応する教会で、ディスペンセーション主義、艱難前再臨説であった。したがって進化論は間違いであり、聖書に書いてあるとおりに最初から人間は人間として創造されたと教えられた。人を信仰に導くときのセオリーである「神・罪・救い」の最初の「神」の存在に関する説明として、まず福音のメッセージの最初に「創造論」が語られた。
 神は万物の創造者であり、私達は目的のなく偶然に発生して進化した動物ではない、と教えられ、感動したものだ。神は私たちをかけがえのない存在として目的を持って造られたという福音と共に、進化論は科学ではなく、神を否定する思想であると教えられた。進化論を否定することが福音を受け入れることと一体になっていたのである。
 当時、工学系の学校を卒業し、生物学には全く疎かった私は、創造科学の書籍によって、いかに生物が精巧な仕組みを持ち、それが偶然に進化することなどあり得ないと確信した。加えて、弱肉強食、優性主義、競争原理などの負のイメージが進化論を嫌悪させた。

 この問題は「科学対宗教」という側面で単純化されることが多いが、実際はもっと複雑である。
進化論を認める教会、教派、クリスチャンも数多い。また後に述べるように創造論者の多い福音派の中にも変化がみられる。また神を信じ、また進化論を指示する科学者も数多く存在する。

 次にこれらの様々な立場の主張を比較、検証していきたい。
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日本人の知らないキリスト教の影響

「日本人は、昔からお寺で葬儀をしたり、神社で結婚式をしたりしており、キリスト教は後から入ってきた」と思っている人もいるが、とんでもない。

 昔は葬儀など行われず、死体は汚れたものとして最下層の非差別民に始末させていた。貧しい者は川などに放置された。
 戦国時代、キリシタンが丁寧に葬儀と埋葬をする姿に日本人は感動したと伝えられている。お寺が葬儀を行うのは後に檀家制度ができてからである。

 ★檀家(寺請)制度はキリシタン取り締まりのためであった。

 徳川幕府は、キリシタンでは無いという証として(宗門改)、すべての人を寺に所属させ、事実上の戸籍の管理を任せた。日本人は幕府により仏教徒にさせられたのだ。

 寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。

 ★町内会の起源は、キリシタンを取り締まる五人組であった。

 徳川幕府は、キリシタンや浪人の取り締まりのために五人組制度により、連帯責任、相互監視の統治組織とした。これが昭和初期の隣組を経て、その活動の一部は町内会、自治会に引き継がれている。もちろん相互監視や思想統制の役目は、戦後GHQにより隣組が解体されるまでのことである。

 また、明治政府は明治4年に民衆を神社の氏子とする氏子調(うじこしらべ)を発令する。これは檀家制度を神道に置き換えたものである。明治6年(1873年)のキリスト教禁止政策取り止めに伴い、氏子調もわずか2年で廃止されたが、一村一社での氏神-氏子意識を定着させるなど、後の神社神道への礎となった。
自治会と神社の密接な関係は、現代まで続いている。


また、七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以後のことある。


 このように一部の貴族階級を除いて、一般民衆は為政者により、(キリスト教を排除するために)仏教徒や氏子にさせられたのである。

 「うちは先祖代々何々宗だ」という人には、ほんとにそうなのか考えてみることをお勧めしたらよい。

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こころ教と原理主義

この仏教学者の話は、妙に納得がいく。 キリスト教についても同じことが言える。 「気休めの福音」に満足できない人は「原理主義」に行く。極端になる。 あるいは見えるものに頼る。異言、いやしなど。 ここから引用。 仏教学者 佐々木閑 日経ビジネス オンライン 「宗教崩壊」 2015/6/6 人が集まればよいのではない、仏教で生きていきたいと思う人がどれだけ増えるか。 「その人の人生を引き受ける」覚悟を示すこと。 僧侶が本気で教義を信じていない。 科学とうまくすり合わせできないことを、「心の問題」に置き換えて解釈しようとするのは仏教だけに限りません。キリスト教、イスラム教も今、同じようなことを言いだしています。すべてのものを、心の中に落とし込んでいく手法です。  私は、現在起こりつつある、こういった宗教の一元化を、「こころ教」と呼んでいます。私の造語ですけどね。これからの宗教は、「こころ教」へと向かいます。その証拠に今、どの宗教もキャッチフレーズが同じになっています。  「こころ教」のキャッチフレーズにはキーワードがあります。それは「心」と「命」です。動詞では「生きる」です。この3つのキーワードで、どの宗教もキャッチフレーズを語るようになっています。例えばある仏教教団のキャッチフレーズは「今、いのちがあなたを生きている」です。一体、何を言っているのか分かる人がどれだけいますか? 「こころ教」がこれからの宗教の姿です。「こころ教」は、万人に受け入れられます。なぜかというと特殊性がないから。万人には受け入れられますが、その人の人生を丸ごと救う力はありません。つまり、気休め以上のものにはならない。 本当に絶望している人は「こころ教」でなく「原理主義」のほうへいきますよ。 私はここで、「原理主義」という言葉を悪い意味で使っているわけではないのです。ここでの原理主義とは、本来の宗教が果たす役割を担った少数の人たちのことです。つまり本来の教団の教えをそのまま受け継いでいく人たちです。
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「死んだ後、天国か地獄」は聖書の教えか?

「死んだ後、神を信じる者の魂は天国で永遠に生き、信じない者の魂は地獄で永遠に苦しむ」という意味であれば、答えはNOです。

これは聖書の教えではありません。
多くのクリスチャンも誤解しているのではないでしょうか。

日本人であれば、魂が雲の上のようなところで生きるのが天国だというイメージは仏教の影響ではないでしょうか。

西洋人であれば、ギリシャの霊肉二元論の影響だと言われています。

それでは聖書にはどう書いてあるのでしょうか?

山崎ランサム和彦氏のブログを参考にさせていただきました。

1 天国という言葉の誤解

 聖書には、
「天の国」(口語訳聖書では「天国」)、
「神の国」、「御国」、
「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)、
「ゲヘナ」(口語訳、新共同訳では「地獄」)、
「ハデス」(新共同訳では「黄泉」)と
いう言葉が出てきます。

 ここで「天の国」はマタイ福音書のみの表現で、天はユダヤ人にとって神の婉曲的表現で、「神の国」と同じです。「御国」も「神の国」と同じです。

 したがって、
「神の国」と「パラダイス」が信仰者の行くところ、
「ゲヘナ」と「ハデス」が不信仰者が行くところです。

2 神の国とは何か

 イエスの宣教の始めに、「神の国は近づいた」と言われました。(マルコ1:15)
 また祈りの中で、「御国がきますように」と祈れと言われました。(マタイ6:10)

 ここから「神の国」は私たちが行くところではなく、この世界に「来る」ものだということがわかります。そして「みこころが天で行われるように地でも行われる」こと、すなわち神の支配がこの地に実現することです。
 またパリサイ人の質問に対しても、「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました。(ルカ17:21)これは心の中にあるという意味ではありません。現実の世界で始まっているということです。

 口語訳聖書でマタイ福音書の「天の国」を「天国」と訳したために、誤解が生じているのではないでしょうか。
 しかし「天の国」=「神の国」は今見たように、死んでから行くところではありません。


 これに対して「パラダイス」ということばは、一般にイメージする「天国」に近いかもしれません。
 イエスと共に十字架につけられた犯罪人のひとりは、「今日、わたしともにパラダイスにいる」と言われました。(ルカ23:43)
 またパウロは、生きたまま「パラダイス」に引き上げられた特殊な経験をしました。(2コリント12:4)

 「パラダイス」は死者の魂の一時的な場所と考えられますが、それ以上聖書は詳しく述べていません。
 しかし「神の国」でないことは明らかです。

3 最終的な希望

 この世界の最終的な希望は、キリストが再びこの世界に来られて、「新しい天と地」が創造されることです。「神の国」の完成です。(黙示21:1)
 創世記において神は天と地を創造しましたが、人間の罪により、この世界は堕落してしまいました。黙示録において、神は再び天と地を創造し、そこで復活の体を持った私たちが世界を管理するのです。

 私たちは死んで魂だけが残るのではなく、新しい体が与えられると聖書は教えています。(1コリント15章)
 魂だけが雲の上のようなところで永遠に生きるのではなく、「体を持って」、神が王として完全に支配する神の国である「新しい地」で永遠に生きるのです。

 これが聖書の示す最終的な希望です。パラダイスは一時的なところに過ぎません。

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