神様のあたりまえ

聖書から
04 /10 2022
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15:32)

ルカ福音書15章は、聖書の中の聖書福音の神髄といっていいでしょう。

神について、罪について、悔い改めについて明らかにしてくれると同時に、この3つについて私たちが思っていた「当たり前」と、神の「当たり前」が大きく違うことも明らかにしてくれます。

神は「罪人が嫌いで、退けて、裁く方」ではなく、「失われた大切な存在として見つけるまで探す方」です。

罪とは、単に「戒めを破ること」ではなく、神の無条件の愛を信じないで、自分勝手に生きることです。

悔い改めとは、「自分の努力」ではなく、神のもとに帰り、神の招く喜びの祝宴に加わることです。
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父がその子を憐れむように

聖書から
03 /06 2022
主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。 いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、 私たちの咎にしたがって 私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。(詩篇103:8-13)

このみ言葉が私の神概念に大きな衝撃を与えたことを今も覚えています。
神は正しい方、罪を憎み、罪を罰する方。それが神というものだと思われています。

しかし神は「罪にしたがって私たちを扱わない」「咎にしたがって私たちに報いない」というのです。

「父がその子を憐れむように」ということばは、ルカ福音書15章のたとえを思い出させます。
神は私たちを「罪人」として扱わず、「失われた者」として探し、見つけ、喜んで迎え入れてくださるのです。

「それでは神は公正ではない。甘すぎる」という人もいるでしょう。
しかし自分自身がその「失われた者」であることを知るとき、今までの神概念が崩れ去り、
神の本当のお姿が見えてくるでしょう。
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「マルタとマリヤ」と思い込み

聖書から
09 /16 2021
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ10章38,39節、42節 新改訳

口語訳、新改訳はマリヤを「妹」と訳していますが、新共同訳、新改訳2017、聖書協会共同訳は「姉妹」と訳しています。
原語は姉妹ですので、どちらが姉か、妹かはわかりません。
実は口語訳、新改訳でも、同じ単語を他の箇所では「姉妹」と訳しています。
この箇所だけなぜか「妹」なのです。

小さなことのように思えますが、それがこの箇所をどのように解釈してきたかを現わしていると思います。

私たちは現代の日本人の感覚を聖書に当てはめてしまいがちです。
例えば、しっかり者の姉とのんびり屋の妹、姉が忙しく家事をやってるのに妹は知らんぷりでスマホを覗いている、そんな構図を描いていませんか。

そうするとマルタに味方したくなります。

師の足下は特等席です。この時代では男の弟子が座る場所です。マリヤがそこに陣取ったのは、イエス様が女性を大事にされたこともありますが、異例のことで、それだけ彼女はイエス様の言葉を聞きたかったのでしよう。のんびり屋の妹だからではありません。
またこの時代の人々は聖書を持っていません。イエス様の話を聞けるのは貴重な時なのです。
イエス様は、彼女がそれを選んだので、それを取り上げてはならないと言われました。
どっちの奉仕が大事かではなく、自ら良いものを選び取ることを教えています。

皆さんが同じように解釈していたかはわかりませんが、ちょっとした誤訳と思い込みが、聖書理解の妨げになっている例として参考にして頂ければ幸いです。

マルタとマリヤ
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福音の再発見

コラム
06 /11 2021
 私が信仰を持った十代の頃の福音の理解は、イエス様が私の罪のために十字架にかかり3日目によみがえったこと、それを信じる者は救われて天国に行くことができる、そしてイエス様はこの悪の世界を滅ぼすためにもう一度来られるということでした。救われた私たちは人々が救われるように伝道することが生きる意味でした。この世界は悪であり、滅ぼされるべきものでしかありませんでした。

 しかし数十年たった2017年頃、N・T・ライトの著書「クリスチャンであるとは」「シンプリー・ジーザス」などを読み、福音や神の国の理解が大きく修正されました。今までなんとなくももやもやしていたものが、霧が晴れるような気がしました。福音書のイエス様のメッセージがはっきり見えてきたのです。
 そして「シンプリー・ジーザス」の訳者である山口希生師を囲んでOCCで毎月1回開かれた読書会に参加して、同じ思いを持つ参加者の方々と共に、新たな福音理解、いや本来の福音理解へと導かれました。

 死んだ後天国に行くことが最終ゴールでもなければ、それだけが福音ではない、天と地が新しくされて神の国が来る、いやすでに神の国が始まっている、イエス様が王となられた、これこそが福音であり、私たちの最終的希望なのだと知りました。

 若い頃から聖書を学ぶために「聖書を読む会」のテキストを使っていましたが、2018年に「救いの基礎」というオリジナルテキストが発行されました。そのテキストはまさにその福音理解に沿ったものでした。
 発行に伴い総主事の島先克臣氏が「神のご計画ー世界の創造から完成まで」と題してセミナーを開いてくださいました。島先氏が宣教師であった頃に面識がありましたが、氏がこのテキストを作成した経緯をご自身の経験を通して語って下さり、このような福音理解が広まってきていることを実感しました。

 この理解に至る前には福音書がいまひとつしっくりと理解できませんでした。十字架と復活の大切さはわかるものの、そこに至るまでのイエス様の教えは私たちがいかに罪深いかを教えるもので、いやしや奇跡はご自身が神の子であることを証明するためという理解でしかありませんでした。

 そして福音書の最初に書かれている「イエスは福音を宣べ伝えた」という「福音」とは何なのか。「福音」が十字架と復活を信じて救われることであるなら、まだ十字架と復活のことは誰にも明らかにしていないはずなので、そこが引っかかっていたのです。

 思い返せば救われた当時の教会では、新約聖書の書簡がよく読まれていて、そこから信仰というもの、そしてどう生きるかということを学ぶことが多く、福音書から学ぶことが少なかったように思います。信じた後は福音書はもう卒業したかのように。

 ところが、神の国が来ている、世界は新しくなるというイエス様の福音を知ったとき、福音書にかかっていた霧がすっかり晴れていきました。その視点で見ると実は使徒パウロも同じことを言っていることがわかりました。実は教会で毎週唱えられている使徒信条や主の祈りにも、天国へ行くという事柄は無く、「かしこより来りて(天からイエスが再び来て)」とか、「御国が来ますように」という神の国への希望があることに、なぜ気づかなかったのだろうと思います。
 「神の国は近づいた」というイエス様のメッセージこそが「福音」であり、神の国とは何なのかを教え、また癒しと奇跡をもって神の国を現わしてくださったのです。そして私たちが神の国に入るためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。しかしその神の国とはいわゆる「天国」ではなく、回復された新しい天と地なのです。

 聖書を読む会の「救いの基礎」と「神のご計画」はこの聖書理解を学ぶための手ごろなテキストです。じっくり学ぶための書籍は以下がお勧めです。

福音の再発見 スコット・マクナイト
クリスチャンとは N・T・ライト
シンプリージーザス N・T・ライト
わが故郷、天にあらず ポール・マーシャル
聖書六十六巻を貫く一つの物語

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安心して生きなさい

聖書から
05 /03 2021
「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」  (ルカ7:50)

犯した罪はいつまでも消えないのか。

いつまでも「罪深い女」と呼ばれて生きなければならないのか。

でもあの方は言ってくださった。

「あなたの罪は赦されています。」

こんな私でもいいのですか。

あなたの信仰、それ十分、安心してきなさい 
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)