主の祈りを生きる その2

聖書から
05 /01 2024
主の祈りを生きる

隠れたところで祈りなさい、と教えた後で主イエスは、主の祈りを教えました。山上の説教の第2部のさらに真中に置かれた「主の祈り」は、山上の説教の中心とも言えます。「主の祈り」について書かれた有益な本は数多くありますが、今日は特に山上の説教の中心にある祈りとしての特徴を見ていきます。
その直前で「異邦人のように何度も同じ言葉を繰り返してはいけない」と言われました。異教の祈りは、その熱心さによって願いをかなえてもらうのが目的です。しかし父なる神は「祈る前に、あなたがたの必要を知っておられる」といいます。ではなぜ私たちは祈るのでしょうか。
それは願いを叶えてもらうのが祈りの真の目的ではないからです。

「だからこう祈りなさい」と主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、祈りの真の目的を教えてくれます。
主の祈りの前半は神についての祈りで、後半は自分たちについての願いですが、どちらも主イエスの語られた教えと関連しており、その祈りは私たちがなすべきことをも教えています。
すなわち主の祈りを祈ることなしに主イエスの教えを実行することはできず、また天の父の子として生きる上では、主の祈りは必要不可欠なのです。

それでは主の祈りがどのように主イエスのことばと関連しているかを見ていきましょう。

天のいます私たちの父よ
 主イエスは山上の説教の中で何度も「あなたがたの天の父」と言われています。7章11節では「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」とあります。私たちは愛されている子どもとして安心して祈ることができるのです。

御名があがめられますように
 5章16節では、父があがめられるように、地の塩、世の光として生きなさいと言われました。私たちもこの祈りを祈るとき、父があがめられる生き方を問われています。

御国が来ますように
 5章の最初で、私たちは天の御国に入れていただいたと学びました。やがて来る神の国の完成を待ち望みつつ、いま神の御支配のもとに生きることを求められています。

みこころが天で行われるように地でも行われますように
 7章21節に 「父のみこころを行う者が(天の御国に)入る」と書かれています。私たちがみこころを求め、みこころに従うときにみこころが地で行われるのです。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください
 6章25節に「何を食べようか・・心配するのはやめなさい」とあります。私たちの必要はすべて知っておられるのですから、その父に信頼して「今日も与えてください」と感謝をもって祈るのです。同時に「私たち」とあるように他者の必要のためにも関心を持ち祈るのです。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました
 人を赦すことが、自分の赦しの条件と考えるべきではありません。「人にして欲しいことは人にもしなさい」という律法の本質に従うなら、他者を赦さずに、自分の赦しだけを父に求めるべきではないでしょう。5章24節の和解(仲直り)の教え、5章44節の「敵を愛し、祈りなさい」という教えの適用でもあります。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください
 7章15節に「偽預言者に注意しなさい」とあり、彼らを見分けなさいと言われています。

人に見せるために行っている偽善者たちへの警告の中で教えられた「主の祈り」は、私たちの心を父なる神に向け、父と子の関係の中で祈り、生きることを教えてくれるものです。

主の祈りを生きることこそが、パリサイ人の義にまさる義であり、天の御国に生きる者の生き方なのです。
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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