主の祈りに生きる その1 マタイ6章1~18節

聖書から
04 /28 2024
主の祈りを生きる マタイ6:1-18 

山上の説教は、5章前半の導入と7章後半の結論に挟まれて、3つのテーマが主イエスによって語られます。

前回はその第1部である、律法の解釈についての話題でした。「昔の人々にこう言われているのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたにこう言います」と、律法の本来の意味を解き明かし、天の父のように敵を愛しなさいと締めくくられました。

今日の第2部は、パリサイ人が行っていた3つの善行を取り上げ彼らの偽善を指摘し、人の称賛を求めずに天の父のまなざしの下で行うべきであることを教えます。

天の父のまなざしの下で生きる

私たちも人の目を気にしたり、人からどう思われているかを気にしながら行っていることはないでしょうか。パリサイ人は貧しい人に施しをするときや、1日に3回お祈りをするとき、そして週に2度断食をするとき、それが人に見えるところで行っていたのです。主イエスはそのような人は自分の報いを受けてしまっているので、天の父からの報いは受けられないと言います。この自分の報いの「報い」とは原語では「報酬」を意味します。報酬とは当然受け取るべきものです。「自分はこれだけのことをしたのだから当然だ」という思いで人からの称賛を受けているのです。
しかし、隠れた所で人の評価を求めず、天の父のまなざしの下で行ったときに与えられる「報い」とは原語では「お返し」という意味です。好意の贈り物をするときに「報酬」を求める人はいません。「お返し」さえ期待するのは間違いです。
しかし、天の父は、報いを求めずに行った私たちに対して「お返し」をしてくださるというのです。それは何かはわかりません。いついただけるのかもわかりませんが、素晴らしい恵みの贈り物に違いありません。

主の祈りを生きる

隠れたところで祈りなさい、と教えた後で主イエスは、主の祈りを教えました。山上の説教の第2部のさらに真中に置かれた「主の祈り」は、山上の説教の中心とも言えます。「主の祈り」について書かれた有益な本は数多くありますが、今日は特に山上の説教の中心にある祈りとしての特徴を見ていきます。
その直前で「異邦人のように何度も同じ言葉を繰り返してはいけない」と言われました。異教の祈りは、その熱心さによって願いをかなえてもらうのが目的です。しかし父なる神は「祈る前に、あなたがたの必要を知っておられる」といいます。ではなぜ私たちは祈るのでしょうか。
それは願いを叶えてもらうのが祈りの真の目的ではないからです。

次回は主の祈りを詳しく見ていきます。

参考:
主の祈りを中心とした山上の説教の構造
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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