「天の父の子どもになる」 マタイ5:21-48

聖書から
04 /15 2024
「天の父の子どもになる」 マタイ5:21-48

前回は、キリストが与える義と、パリサイ人らの義が本質的に違うものだと学びました。
前回は読みませんでしたが、ルカ18:9-14にはそのことが明確に示された主イエスのたとえがあります。パリサイ人は「わたしは律法をきちんと守っています」と祈っていますが、取税人は「私の罪をお赦しください」と祈っており、義とされたのはこの取税人のほうだと主イエスはおっしゃっています。心の貧しい者、義に飢え渇く者、へりくだった者が天の御国に入れられているのです。

そして主イエスが成就すると言う「律法と預言者」とは何かという結論が7章12節に書かれているのを見ました。
  「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
これは言い換えれば「隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということですね。これに加えて「あなたがたは幸いです」、「あなたがたは地の塩、世の光です」というこの3つを土台として山上の説教を読むときに、主イエスの教えられた意味がよりはっきりと分かると思います。
このことを踏まえて今日の箇所を学んでいきましょう。

今日の箇所はそれぞれの段落が同じように始まっていますね。
「昔の人々に~と言われているのを、あなたがたは聞いている」 というのは当時のラビも使っていた表現のようですが、旧約聖書の律法とユダヤ人の言い伝えを主イエスは取り上げています。
続けて主イエスは、「しかし、わたしはあなたがたに言う」 と続けます。「わたしは」というところは原語では「エゴー」という言葉が加えられていて(エゴイズムの語源)、わたしを強調しています。すなわち、主イエスが権威をもってこの教えの本質を教えようとしているのです。

結論から言うと、この箇所は「隣人を愛すること」を具体的に教えています。
 「殺してはならない」 = 隣人との和解を第一優先に
 「姦淫してはならない」 = 結婚を大切にする
 「誓ったことを果たしなさい」 = 誠実なことばを語る
 「隣人を愛し、敵を憎め」 = 敵をも隣人として愛する

「殺してはならない」=隣人との和解を第一優先に

主イエスは怒ること、ばかにすること、侮辱することも実際に人を殺すことと同じであると言います。これは私たちもよくわかると思います。日本の殺人の半数以上は怨恨によるものだそうです。人を殺してしまうその根っこには怒り、憤り、人を見下すことなどが潜んでいます。

そして主イエスはただ「怒ってはならない」というだけでなく、仲直り(和解)しなさいと言います。しかも「兄弟に恨まれているのを思い出したら」、つまり怒っているのは自分ではなく他者なのです。誰かが自分に対して怒っているなら、すぐに仲直りしなさいと言うのです。それは神様に供え物をするよりも先にまずするべきことだと言います。
「わたしを礼拝するのは良いけれど、その前にあなたはやるべきことがあるだろう」と神様は言われます。
それが地の塩、世の光である私たちの務めなのです。

「姦淫してはならない」=結婚を大切にする

情欲をもって女性を見るなら心の中で姦淫を犯したことになる、多くの男性が刺される言葉です。
右目右手を失っても、とは誇張表現ではありますが、それだけつまずきとなるものを徹底的に取り除きなさいということでしょう。
ただここで大事なことは夫婦関係、結婚を大切にすると言うことではないかと思います。姦淫とは既婚者が対象であり、文脈から見て次の「離婚状を与えよ」という段落と一体で考えるべきでしょう。

女性の立場が弱かった当時は、離婚状は女性が離婚していることを証明し再婚することを可能にするものだったようです。しかし当時の男性は、些細な理由で(飯がまずいとか)離婚する口実に使っていたようです。(マタイ19:3-10 弟子たちもその程度の理解だったようです)
主イエスは「神が結び合わせた者を引き離してならない」と教えられたように、安易な離婚と再婚は妻と自分に姦淫させることになると言います。
聖書は離婚を全く否定してはいませんが、結婚を大切にすることを教えています。(へブル13:4)

「誓ったことを果たしなさい」=誠実なことば

当時の人々は天、地、エルサレム、自分の頭にかけて誓うことは、神にかけて誓うのではないので誓いを破っても構わないとしていたようです。しかし主イエスは軽率に誓うことや、簡単に誓いや約束を破ることを戒めています。神にも人にも誠実であることを求めていると思います。(結婚の誓いに誠実であることも含まれるかもしれません。)

「目には目を」「隣人を愛し、敵を憎め」 = 敵をも隣人として愛する

「目には目を」と言う言葉は少し誤解されていますが、本来は過度の報復や過度の刑罰を抑止するものですが、主イエスは個人的な関係においては悪に悪を返さない、暴力によって対応しないことを求めています。我慢して暴力に耐えるのではなく、復讐する思いから解放され、「善を持って悪に打ち勝つ」と言う言葉のように、逆に相手がひるむほどに堂々と相手に向き合うことです。

「敵を憎め」という言葉は聖書にはありません。ユダヤ人たちの言い伝えでしょう。主イエスは、隣人だけでなく、敵をも愛しなさい、それは「天におられるあたたがたの父の子どもになるため」だと言います。これ以降「あなたがたの天の父」ということばが、山上の説教の中で14回出てきます。天の父は悪人にも善人にも、神の敵となっている人にも雨を降らせてくださるお方です。

ここで私たちは自分を悪人の側において考えないかもしれません。しかし私たちもかつては「神の敵」であったことを思い起こしましょう。敵であった私を神は愛して救ってくださり、父の子どもにしてくださいました。ですから子どもである私たちも敵を愛するべきである、そのように私たちも成熟して「天の父のように完全になる」ことを主イエスは願っておられるのです。「完全」とは成熟や成長を意味しています。愛において成長することを目指していきましょう。

今日の箇所で主イエスは、律法とは「隣人をあなた自身のように愛する」ことだということを、具体的に教えてくださっています。そして「誰が私の隣人か」と区別せず、夫婦、兄弟だけでなく敵をも愛することを求めておられます。それは一般的な倫理ではなく、天の父の子とされた私たちにとって、地の塩、世の光としてふさわしいことなのです。


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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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