祝福宣言 マタイ5章1-12節

聖書から
03 /13 2024
祝福宣言 マタイ5章1-12節

今日から有名なことばが多く含まれる「山上の垂訓」、または「山上の説教」と呼ばれる箇所に入ります。
前回4章の最後で4人の弟子たちと大勢の群衆がイエス様に「従った、ついていった」という記事で終わりました。その「従ってきた」群衆と弟子たちに対して、イエス様はこの有名なお話をされたのです。

3節から11節までは、「何々な者は幸いです」という言葉が続いています。古い英語の聖書では、Blessed are、と言う言葉が冒頭に来ています。これが原語のギリシャ語でも同じで、幸いあるいは祝福されているという言葉が冒頭に来ています。文語訳聖書では「幸福なるかな」で始まっています。

  Blessed are the poor in spirit: for ... (英語)
  Μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι, οτι (ギリシャ語)
  幸福なるかな、心の貧しき者(文語)

日本語の文章では結論が後の方に出てくるので、最後に「幸いです」となりますが、最初に「幸いです」から始まるほうが、聞いたときのインパクトは違いますね。イエス様の時代、教科書もノートもありませんから、弟子は先生の口からでる言葉を真剣に聞かねばなりません。「幸いです、祝福されています」という言葉を聞いた瞬間に弟子たちは、身を乗り出して次のことばを待ったに違いありません。

ところがイエス様は意外なことを語ります。心の貧しい者、悲しむ者が幸いだ、というのです。特に日本人の私たちにとっては「心が貧しい」というのは性格的に嫌われるような人を指しているので、一層違和感があります。しかも「天の国はその人たちのものだ」、つまりそういう人が神の国に入れて頂けるというのですから驚きです。
実は旧約聖書に親しんでいるユダヤ人にとっては、「貧しい」という表現には特別な意味があるのです。

  私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。(詩40:17)
  わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

ヘブライ語で「貧しい」とは「へりくだって」という意味もある言葉で、神の前に自分は何もない、貧しいという意味を持っています。神の前に徹底的にへりくだった者と言う意味なのです。

自分は神の前に何者でもないというへりくだった者、それはイエスの言葉と行いに感動し、従ってきた目の前の人々に他なりません。その人々にイエス様は「祝福されている」と祝福を宣言なさったのです。あなたがたはすでに天の国(神の国)の一員になっているのだから、と言われるのです。

ギリシャ語の文法としては3節と10節の「天の国はその人たちのもの」というのは現在形なのですが、それに囲まれた4節以降、「慰められる、満ち足りる…」は未来形です。(日本語には未来形がないのでわかりにくいですが)天の国に入れられた者たちへの約束と考えてよいでしょう。今は悲しみの中にある人も、必ず神様からの慰めが与えられるでしょう。

「山上の説教」と聞くと、守らなければならない戒めという印象を持つかもしれませんが、まずはじめに、私たちは神様に祝福されている、幸いな者なのだとイエス様は宣言してくださいました。その幸いな者たち、神の国に生きる私たちは、この地上でどう生きるべきか、それを教えているのがこれから学ぶ「山上の説教」だと考えて下さい。

このビデオもとても参考になります。ぜひご覧ください。
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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