神の国の宣教の始まり マタイ4:12-25

聖書から
02 /24 2024
神の国の宣教の始まり マタイ4:12-25

ガリラヤから始まる宣教
17節に「このときからイエスは宣教を開始し」とありますが、どんなときでしょうか。
12節に「ヨハネが捕らえられたと聞いて」とあるように、このときからです。ご自分の前に道を整える者としてのヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられたから、いよいよご自身の宣教を開始されました。
ヨハネがヘロデに捕らえられたいきさつは、14章で明らかになりますが、ここではそのことよりも、イエス様が宣教を始められたことが需要なテーマです。

12節に「ガリラヤに退かれた」とありますが、これはヘロデを恐れて逃げたということではありません。いやむしろ、ヘロデが治めるガリラヤに行き、ヨハネと同じメッセージを宣べ伝え、多くの人々を集めることは、ヘロデを刺激することになります。14章1節では、イエス様をヨハネのよみがえりだと恐れていたことがわかります。

700年前の預言者イザヤも、キリストがガリラヤから宣教を始めることを預言しました。15、16節はイザヤ書9章1ー2節の引用であり、6-7節には有名なメシヤ預言が記されています。
人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ:46)と言うように、首都エルサレムから見れば辺境の田舎町でキリストが宣教を開始するということは予想しなかったのでしょう。
しかしイエス様は権力者が跋扈するエルサレムではなく、政治的にも宗教的にも抑圧に苦しむ田舎町の人々に、闇を照らす光として現れてくださいました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

神への反逆がもたらす罪の闇、それを打ち破る光としてのキリストは来られたのです。

わたしについてきなさい
神の国が近づいたから、悔い改めよ、このメッセージは、旧約を自分たちの歴史として読んできたユダヤ人にとって、衝撃的だったでしょう。神の国とはまさしく闇と死の消えたところであり、ユダヤ人が長く待ち望んだものです。
「悔い改める」ということは、このよき知らせ(福音)に応答し、「わたしについて来なさい」というイエス様の呼びかけに応えることです。

19節 「ついてきなさい」 とは、英語では、come after me、あるいは、follow meと訳されています。私たちは誰についていくか、誰を模範として生きていくかで大きく変わります。イエス様は雲の上から命令されているのではありません。いつも私たちと共にいる「インマヌエルの神」であり、私たちの前を歩んでくださるのです。
自分の努力や信仰深さで、教えを守って生きていくのでありません。そこには苦しみしかありません。失敗しても躓いても、イエス様の姿を見失わずにイエス様と共に歩んでいくのが、キリスト者の信仰生活です。そこに喜びと平安があります。

新興宗教に生活を破棄され、人生を破壊される人々がいます。そんな話を聞くと彼らはどんな神様を信じているのかと疑問になります。神様の顔が見えません。ただ組織の教えに盲従しているだけにしか見えません。キリスト者も教会という組織に盲従するだけなら、同じ運命になりかねません。私たちがついていくべきお方はどなたなのか、よくよく考える必要があります。

20、22節で、弟子たちは職業をやめたり、家族と絶縁したと勘違いしないでください。
聖書全体を読むとそうではないことがわかります。「父と母を敬え」と十戒に記されています。ここでは、イエス様についていくことが最も優先すべきことであると理解してください。

20、21,25節 弟子たちも群衆もイエス様に従いました。 この言葉も英語ではfollow him です。原語でもいっしょに行くという意味があります。

イエス様は、ついてきた弟子たちと群衆に、次の5章からあの有名な山上の垂訓と呼ばれる長いお話を始められます。乞うご期待。
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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