「マルタとマリヤ」と思い込み

聖書から
09 /16 2021
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ10章38,39節、42節 新改訳

口語訳、新改訳はマリヤを「妹」と訳していますが、新共同訳、新改訳2017、聖書協会共同訳は「姉妹」と訳しています。
原語は姉妹ですので、どちらが姉か、妹かはわかりません。
実は口語訳、新改訳でも、同じ単語を他の箇所では「姉妹」と訳しています。
この箇所だけなぜか「妹」なのです。

小さなことのように思えますが、それがこの箇所をどのように解釈してきたかを現わしていると思います。

私たちは現代の日本人の感覚を聖書に当てはめてしまいがちです。
例えば、しっかり者の姉とのんびり屋の妹、姉が忙しく家事をやってるのに妹は知らんぷりでスマホを覗いている、そんな構図を描いていませんか。

そうするとマルタに味方したくなります。

師の足下は特等席です。この時代では男の弟子が座る場所です。マリヤがそこに陣取ったのは、イエス様が女性を大事にされたこともありますが、異例のことで、それだけ彼女はイエス様の言葉を聞きたかったのでしよう。のんびり屋の妹だからではありません。
またこの時代の人々は聖書を持っていません。イエス様の話を聞けるのは貴重な時なのです。
イエス様は、彼女がそれを選んだので、それを取り上げてはならないと言われました。
どっちの奉仕が大事かではなく、自ら良いものを選び取ることを教えています。

皆さんが同じように解釈していたかはわかりませんが、ちょっとした誤訳と思い込みが、聖書理解の妨げになっている例として参考にして頂ければ幸いです。

マルタとマリヤ
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

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