異言の賜物ばかりなぜ求めるのか?
コラム
ペンテコステ系の牧師、教会は盛んに異言の賜物が与えられるように求めるべきという。
彼らが良く引用するのは1コリント14章5節である。
「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、」
みんな異言を語るべきだ、というのだ。
しかしこの続きを無視している。
「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのはあなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。」
異言を求めましょう、とは聞くが預言を求めましょうとは聞かない。
異言を語るところで、その解き明かしを聞いたことがない。
その前の3節で、預言は人を育て、勧め、慰めるとある。
預言のほうが役に立つことは明白である。
なのになぜ、異言ばかりを欲しがるのか?
「聖霊のバプテスマを受けて、異言が与えらえて、喜びがあふれてきた」というような話を聞くと、そんな経験の無い私は、嫉妬心から、「そんなの一時的な感情さ」と思ってしまう。
しかし、そんな自分に嫌気が差すと、異言を求めてみようかなとか何度か思った。
でたらめ言葉を口にしようと思えばできそうだが、やっぱり性に合わないことはやめておこうと思ってやめる。
やはり聖書からはっきり必要性を確信するまでは、「よりすぐれた賜物を求めなさい」(1コリ12:31)という言葉に従い、預言と愛を求めることにしている。
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