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進化論と聖書信仰は両立できるか 1

進化論と聖書信仰は両立できるか 1

「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ福音書6:30)

はじめに

 一輪の花の美しさに私は自然の素晴らしさを見る。しかも、それが小さな種や球根からいつの間にか芽を出し、やがて美しい花を咲かせる。この花のひとつも人間が作り出したものではない。私は自然の素晴らしさ、巧みさと、それを造られた神を賛美する。
 もちろん花が咲くのは奇跡でも超自然でも、マジックでも無い。科学が解明済みの自然の現象であり、ある意味当たり前の出来事でしかない。
 しかし「科学的に解明された」からと言って、「なんだ、そんなことだったのか」というマジックの種明かしをされたときのようながっかりした気分になる人はいない。いくら科学が解明したとしても、(いやむしろ解明されるほど)微生物から植物、動物に至まで、生命は驚くべき仕組みを持っていることに、そしてそれは人間が作り出したものではないことに、誰でも驚きを覚えるだろう。
 だからと言って、神が忙しく働いて常に奇跡を起こしているとは思わないし、妖精が見えないところで働いているとはもちろん思わない。あくまでも自然法則に従っているのだ。

 これら地球上の生物は、たった1個の細胞から、突然変異と自然淘汰により進化して、様々な種に枝分かれして進化してきたと考えられている。この「進化論」はある人々にとって、神が存在しない証拠とされている。特に神がすべてを創造したと書かれている聖書は神話だと証明されたと考える。

 果たして人間は自然の一部として進化した動物であって、神など存在しないのだろうか。聖書は単なる神話にすぎないのか。だとしたら聖書を神のことばと信じ、自らを神の子として全世界に多大な影響を与えたイエス・キリストは詐欺師か誇大妄想か、あるいは空想の人物なのか。
  
 リチャード・ドーキンスなどの無神論を標榜する科学者は、進化論のゆえに神は存在しない、宗教は盲目的で愚か、真の科学者は無神論である、と声高に主張する。ドーキンスの代表的な著書は「神は妄想である」、「盲目の時計職人」等多数邦訳出版されている。日本の科学者も、声高に主張はしないがそのような考えが大半であろう。

 一方で聖書を「誤りの無い神のことば」と信じる人々の一部は、生物は神が創造したのであって「進化論」は誤りで、聖書の創造論が科学的にも正しいことを証明しようとしている。「創造科学」や「インテリジェント・デザイン」の名で、特に米国で大きな運動になって久しい。ノンクリスチャンの間では、このような運動を見て、聖書は科学と相容れない神話、迷信であるという印象が根付いている。
 
 この対立構造が、アメリカで公教育における進化論と創造論の裁判沙汰などで注目され、聖書、キリスト教は非科学的である、という認識が日本でも行き渡っている。

 私が若い頃にはじめて行った教会は、聖書を極端に文字通り解釈し適応する教会で、ディスペンセーション主義、艱難前再臨説であった。したがって進化論は間違いであり、聖書に書いてあるとおりに最初から人間は人間として創造されたと教えられた。人を信仰に導くときのセオリーである「神・罪・救い」の最初の「神」の存在に関する説明として、まず福音のメッセージの最初に「創造論」が語られた。
 神は万物の創造者であり、私達は目的のなく偶然に発生して進化した動物ではない、と教えられ、感動したものだ。神は私たちをかけがえのない存在として目的を持って造られたという福音と共に、進化論は科学ではなく、神を否定する思想であると教えられた。進化論を否定することが福音を受け入れることと一体になっていたのである。
 当時、工学系の学校を卒業し、生物学には全く疎かった私は、創造科学の書籍によって、いかに生物が精巧な仕組みを持ち、それが偶然に進化することなどあり得ないと確信した。加えて、弱肉強食、優性主義、競争原理などの負のイメージが進化論を嫌悪させた。

 この問題は「科学対宗教」という側面で単純化されることが多いが、実際はもっと複雑である。
進化論を認める教会、教派、クリスチャンも数多い。また後に述べるように創造論者の多い福音派の中にも変化がみられる。また神を信じ、また進化論を指示する科学者も数多く存在する。

 次にこれらの様々な立場の主張を比較、検証していきたい。
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