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進化論と聖書信仰は両立できるか 3

2.進化論(科学)と信仰の両立

 結果的にドーキンスら無神論者の主張に対してもっとも論理的かつ明確に反論していたのは、なんと「進化論を認める」クリスチャン科学者や神学者であった。例えば、A・Eマクグラス、彼はドーキンスと同じオックスフォード大学で、分子生物学と歴史神学の博士号を授与された神学者である。著書に「神は妄想か」(教文館)「科学と宗教」(教文館)など。また、フランシス・コリンズは国際ヒトゲノム計画のリーダーを勤めた遺伝学者である。 彼らはドーキンスの無神論と、反進化論の創造論の双方に対して批判し、科学と信仰が矛盾しないことを明らかにしている。
 正直に言えば、私は「進化論を認めるクリスチャンなどは本物のクリスチャンではない」とかつては思っていたのである。なんと傲慢なことか。

 最近、教会の説教の中では進化論について語られることはほとんど無い。若い頃の行っていた教会が特殊だったせいもあるが、それにしても、福音派でも若い牧師ほど反進化論傾向が無くなっているようだ。

福音派も進化論を受け入れる?

 日本基督教団をはじめとする所謂リベラル派の教会においては、聖書は神話であると考える人々もおり、少なくとも進化論は科学的事実として受け入れているようである。しかし創造論者の多い福音派の出版物の中に驚くべき記述を見つけた。
 日本の福音派で現在人気があり、多くの牧師が参照していると思われる「ティンデル聖書注解」の日本語訳は福音派の「いのちのことば社」から出版されている。
 その第1巻「創世記」の中に驚くべき記述を見つけた。著者のデレク・キドナーの個人的見解としながらも、神が進化のプロセスを用いた可能性を示唆しているのだ。

 その中で彼は人類の起源を考察した箇所でこう述べている。

「創世記の本文も決して否定し去ってはいないように、もし、神が初めに進化の過程を用いて人を形造ったとするならば、」(P30)

と、創世記は進化を否定していないという。また創世記1章の「地は..生ぜよ」(注1)という表現について、

「もし、こうした言葉遣いが進化による創造という仮説に良く合致しているように思われても(本書の筆者はそう考えているが)、この仮説だけが、この言葉遣いから導きだされる唯一の体系ということではない。」(P62)

と控えめながら、個人的には進化による創造という仮説を支持すると述べている。福音派の聖書注解で、このような記述に出会ったのは初めてである。

 デレク・キドナーの言うように、神が生物に限って「地は..生ぜよ」と命じた記述が進化論を暗示しているのかもしれない。神が命じてから「そのようになった」というまでに、長い時間かけて進化したと考えられなくもない。神には時間の制約が無いのだから、命じたことがすぐに実行されるというのは人間の思い込みである。

(注1)神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。(創世記1:24 新共同訳)


創世記のテーマは何か

 聖書は(旧約、新約を含めて)ひとつのテーマに貫かれている。それは神による人類の救いである。そしてそのはじめである創世記は、救いの計画のためにユダヤ民族が選ばれるというテーマがある。

 ユダヤ民族の父祖アブラハムが神に選ばれるは創世記の12章であり、その前の1章から11章はプロローグである。すなわち、どのように人類は堕落したのか、そもそも人間とは何なのかということが簡潔に記されている。1章で神が造られた世界は完璧だったことが強調され、2章では人間がその世界を管理する神のパートナーとして祝福されている。しかし3章に入ると、人は神に反逆を始め、堕落が始まる。

 これが創世記の伝えるメッセージであり、地球や生物の成り立ちを教える書物ではない。まして古代の人々に天文学や生物学のことを書いても仕方が無い。「神が造られた、そしてそれは完璧だった」で十分なのである。そのような書物を進化論や宇宙物理学に照らして解析する必要はないだろう。

 宇宙に始まりがあったということは、ビックバン理論と矛盾しないし、創造の順序も科学的事実と合っている。「地は..生ぜよ」という表現は進化論を暗示しているかもしれない。今まで述べてきたように進化論と創世記は矛盾しない解釈も可能である。
 しかし科学というものは新しい発見によって覆されることもあるので、断定すべきではないし、前述のように聖書、創世記のテーマから逸脱するような読み込みには慎重になるべきであろう。科学的事実にも謙虚に耳を傾け、独断的解釈を慎むべきだろう。
 神を信じる理由は他にもたくさんあるのだから。

バーナード・ラムの「聖書解釈学概論」でこう述べている。
 「聖書解釈と科学とは、ともに発展し、進歩してゆくものである。・・科学なしに創世記1章の科学的要素を解釈することは不可能である。」(p275)


偶然について

 創造論者が「私たちは意味も目的もなく、偶然に産まれたのではない」と言うと、感情的には動かされるものがある。確かに私たちが単なる偶然でこの世に存在するというならば人生は無意味に思える。神が目的をもって私たちを造られたというメッセージは生きる勇気を与えてくれる。
 一方、進化論者は「このような偶然の積み重ねでここまで進化した人間には、それだけ価値がある」と言うが、それは個人に希望を与えるものではない。

 しかし考えれば、私たちは多くの偶然に支配されている。そもそも数千万の精子の中から「偶然」卵子と結合した1つの精子により私は産まれた。人生の様々な岐路にも偶然が作用している。しかし、神にとって偶然は無い。神は偶然に左右されたりはしない。したがって進化が偶然に起こったことと、神が私たちを目的をもって造られたということは次元の異なる問題である。

 進化論については「偶然」の積み重ねで高等生物ができるのは確率論的に不可能だという主張がある。しかしダーウインが述べるように、進化は偶然のみではなく、それを保持する必然、すなわち自然淘汰によるものだ。遺伝子の突然変異という偶然が、生存に有利であれば、子孫に遺伝し保持されていく。DNAが発見されてこのメカニズムはより明確になった。

 ケンブリッジ大学の理論物理学者であり神学者であるJ・ポーキングホーンは、新しいものを生み出すには、偶然が必要であり、宇宙や生物の進化は、偶然と自然法則に従う必然の双方が必要だと述べ、偶然は神が与えた自由の徴だと言う。(「科学者は神を信じられるか」P65−71)神は世界を決定論的に造ったのではなく、偶然に任せたと言える。

 偶然という言葉を無神論的にとらえる必要はない。


エントロピーの法則

 創造論者が良く使うのがエントロピーの法則(熱力学の第二法則)である。熱は必ず冷める、秩序あるものは必ず無秩序の方向に向かう、逆はあり得ない、だから進化はあり得ないという。

 しかし、これは外部からエネルギーの供給が無い閉じた系内での法則である。地球には絶えず太陽からエネルギーが注がれている。そのエネルギーにより、海水は蒸気となって上に昇り(これは明らかにエントロピーの法則に反している!?)やがて雨になる。植物は成長し、子供は背が伸びる。(これもエントロピーの法則に反している!?)

 この太陽からのエネルギーにより生命は産まれ、成長し生きていける。進化のエネルギーにも十分なり得る。そして閉じた系で働くエントロピーの法則も生命には欠かせない法則である。

進化論は科学ではない?

 「進化論は科学ではない」とも言われる。科学とは繰り返し実験で検証できねばならないので、再現できない進化は科学ではないという。
 しかし一方でダーウィンは進化論を科学にしたとも言われる。彼の方法は「仮説演繹法」と呼ばれる科学的手法である。これはある仮説を立て、それが真実であればこうであるはずだと予測される現象を証明することで、その仮説を証明する方法である。
言い換えれば、具体的な現象をより正しく合理的に説明できる仮説がより良い仮説であるということになる。進化論という仮説は、現存する生物の多様性をうまく説明できるとダーウィンは考えた。そしてそれは、神が個別に生物を創造したという仮説よりも優れているとしたのである。

 また「進化論は事実ではなく単なる仮説だ」という主張もあるが、再現できないことに関しては仮説しかありえないのである。過去の事実は証明できない。したがって仮説か事実かではなく、どの仮説がもっともよい仮説かということしか科学は言えないのである。自然科学においては「理論」は究極的にはすべて仮説であるということもできる。ただし「検証された仮説」である。創造論者が言う「進化論は事実ではなく仮説である」というのは、その意味では正しいのだが、進化論には何の打撃も与えないスローガンである。

 前にも引用した山中教授と益川教授の対談(「大発見」の思考法 文春新書)の中で、両者が「進化論は証明されていないので、これを信じるのもある意味怖い」という発言をしている。確かに物理学と違って進化は実験で再現できない。従って物理学者に言わせると証明されていないことになるのだろう。しかし進化論は、前述のように科学的な手法で証明することも可能ではないだろうか。ゲノム解析では、ヒトと猿が同じ祖先を持つことを証明した。

 物理学の証明の定義から言えば、進化論も聖書も証明できない事柄なのかもしれない。物理学のように観測と数学によって答えが出せない点では同じだ。しかしそれだけが科学的合理的証明方法ではない。進化論は前述のように「仮説演繹法」という方法があるし、聖書の場合は歴史的検証法や文献批評等のきちんとした科学的検証法が存在する。益川教授やドーキンスが主張するような「自然科学だけが真理を探究する唯一の方法」ということはない。

 この点において創造論は、科学的には検証されていない不確かな仮説なのである。要するに、創造論は科学の問題ではなく信仰の問題であり、聖書の特定の解釈から科学を論じようとする間違ったアプローチである。

 ダーウィンも神の存在などを議論している訳ではない。進化論と聖書、信仰は対立するものと考える必要はない。

「生存競争」?

 進化論について、強いものが生き残るとか、生存競争、適者生存とかいうことばが使われることがある。これらの言葉から優勢主義、人種差別、障害者蔑視などが連想され、心理的に進化論を嫌悪する要因になっている。実際、そのように進化論を悪用した例もある。

 しかし本質的にこれらの概念は進化論には無い。
「種の起源」の第4版までは、「適者生存」という言葉は使われていなかった。これは社会進化論の提唱者である哲学者のハーバート・スペンサーが1864年に発案した造語である。
この考え方を知ったダーウィンは「種の起源」の第5版の第4章「自然淘汰」を「自然淘汰、または適者生存」とした。

ウキペディアには以下のようにある。

一般的に言って、「適者生存」における「適者」とは、この造語の発明者であるスペンサーにおいては個体の生存闘争の結果であるのに対し、ダーウィンの自然選択説では個体それぞれに生まれつき定められている適応力に重点が置かれる。これは、進歩的社会思想と進化論を同一次元で考えたスペンサーが進化の原動力を個人の意識的な努力に求めたがったのに対し、ダーウィンの自然選択説は本質的に決定論的であり、個体それぞれの生存闘争は確率論的な地平に取り込まれるべき理論であることを意味する。

「子孫を残そう」とか、「同じ遺伝子を増やそう」とか、「生き残ろう」とか、「生存競争を勝ち抜く」とか、そんな意志は生物にはない。遺伝子レベルになればなおさらだ。

結果として子孫を多く残したり、利他行動で同じ遺伝子を持つものを助けることができた生物の有利な特徴が遺伝して、結果として生き残ったということではないだろうか。
そこには意志も、目的も、方向性も無い。偶然の積み重ねしかない。
進化論者は、往々にしてこのように進化に方向性や意思があるような表現をすることがあるが、誤解を招くのではないかと思う。

また一般に「強いものが生き残る」という誤解があるが、正しくは「適応したものが生き残る」のである。

生物の不完全性と残虐性

 神が直接生物を造ったのであれば、それほど完全ではない生物の機能について説明ができない。
 人間の眼には構造上の制約により盲点が存在する。しかしイカやタコには盲点は無い。この点ではイカやタコのほうが優れている。
 生物同士の残虐な行為も神が直接造られたとしたら納得がいかない。創造論者はそれを人間の罪の結果とするが、人間の罪によって一度造られた自然界の仕組みが大きく変わってしまうことは考えにくい。

 有限で不完全なこの世界は神の設計の不完全さではなく、自然選択の結果であると考えることができる。

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