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進化論と聖書信仰は両立できるか 4

3.神を信じる積極的理由

進化論の問題を保留にしておいても、神を信じる理由はたくさんある。その代表的なものを挙げておこう。

神を発見する方法は大きく分けて2つある。

・自然を通して - 科学が明らかにしてきた、宇宙や生物の驚くべき構造や成り立ちを通して、神を知ることができる。これをキリスト教では一般啓示と言う。

・聖書を通して - 聖書に記された神を知ること、特にイエスキリストの十字架と復活の出来事と、その世界的影響を通して神を知る。これを特殊啓示と言う。


宇宙には始まりがあった

現代ではビッグバンによって137億年前に宇宙が始まったことが分かっているが、過去、宇宙は永遠だと考えられていた。しかしアインシュタインの一般相対性理論によって予測され、観測によって確認されたのである。

聖書は数千年前から、宇宙に始まりがあったことを記す。
存在し始めるもの、運動するものすべてには原因がある。物質(エネルギー)と空間と時間で構成される宇宙を生み出した原因があるはずである。

「ビックバン自体が神の存在を強く示唆している」フランシス・コリンズ 「ゲノムと聖書」P75

ビッグバンの証拠となった宇宙背景放射を発見してノーベル物理学賞を受賞した天文学者アーノ・ペンジアスも、神を信じるクリスチャンである。

宇宙は知的生命が存在するために最適に調整されている

自然界の物理定数が今とわずかでも異なれば、人間も太陽も原子すら生成されなかったと考えられている。ビッグバン直後のエネルギーのバランスが数%違っていたら、水素だけであったり、水素が全く無い宇宙になっていた。生命のためには、水素、炭素、酸素などの様々な元素が必要である。

電子と陽子の数のバランスが少しでも違ったら、電磁力が重力に勝り、星が形成されず、生命も存在できない。電子と陽子のバランスは10の37乗分の1の確率であり、同じように微調整されている物理特性は77個ある。宇宙が生まれてから「まだ」10の18乗秒しか経っていないにもかかわらず。

「宇宙は意志と目的をもって創造され、この信念は科学的な営みによって妨げられることはない」
ハーバード大学 天文学者 オーウェン・ギンガリッチ (「神の宇宙」の著者)

 しかし「宇宙の微調整」があり得ないことだから、「これは神の超自然的な介入だ」、というべきではない。「宇宙の微調整」の理由がいつか科学的に解明されるかもしれない。2012年にその存在が確認されたヒッグス粒子は、それを解明する手掛かりになるという。現時点ではまだ結論は出ていないが、それもまた神の知恵の偉大さを教えてくれるだろう。そういう意味では生物進化のメカニズムも同様に神の計り知れない知恵の産物かもしれない。

 「神が立てた法則の素晴らしい仕組みを正しく評価することは、神への礼拝として喜ばしく受け入れられるものであることは確かであろう」(コペルニクス)

 科学があらゆるものを解明したとしても、それは人間が作り上げたものではなく、ただそこに存在するものを説明したにすぎない。
 超自然的なものでなく、自然の中にそのような驚異的な秩序が存在すること事態が神を示唆しないだろうか。

 「我々の理解可能性こそが説明を必要とする」(A.E マクグラス)

 私たち人間が、その知恵や抽象的な数学を用いて、宇宙の謎を解明し、理解できること、それ事態が驚異であるとマクグラスは言う。


神が存在しないならば、客観的、道徳的な価値と義務が存在しない

殺人、盗みが何故悪なのか、人に親切にすることは何故善なのか、動物には、この基準は無い。
殺人を善とする文化、法律はどこにもない。他者を犠牲にして得る幸福も認められていない。

道徳が進化の途上で形成されたものだとすれば、自分が生き残るために弱い者を殺すことが認められないのはなぜか、自分を犠牲にして他者を助けるのは賞賛されるのはなぜなのか。

ダーウインは晩年の著書「人間の由来」で、道徳、倫理の形成を進化論から解き明かそうとしている。今日でも多くの進化論者がこの問題を議論しているが、彼らは動物と人間に本質的違いは無いという前提から出発している。しかし道徳は文化的、社会的、宗教的背景を抜きにして論じることはできない。

 カトリック教徒であり進化生物学者のフランシスコ・J・アヤラは、「道徳的規範」は、生物学的プロセスによるのではなく、宗教的、社会的伝統を含む、「文化的進化」の産物であると主張している。

ドフトエスキーはその作品の中で「神が存在しないならば、すべてのことが許されてしまう」という問題提起をしている。神がいなければ「悪」という概念も存在しない。無神論共産主義が、どれほど残虐な行為を正当化したか、歴史が証明している。人間の善悪、正、不正の概念が進化の過程で得たものであるとは、あまりにも単純過ぎないだろうか。

誰一人完全に守れない道徳が私たちの中に存在することも、絶対的な基準である神が存在することを示唆していないだろうか。

キリストの復活

“その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。”(使徒15:6)

このパウロの証言は、パウロの回心後4~6年後に書かれたと推定されている。したがってこれが嘘であれば、キリスト教に反対するユダヤ人たちが容易にこれに反駁できる証拠を見つけるだろう。

彼らが自らが望むことを幻覚で見たという反論がなされることも多い。しかし何百人もの人々が同じ幻覚を見ることはない。

しかもパウロは迫害者であって、復活を期待などしていなかった。

命を捨てた弟子たち

ほとんどの弟子たちは迫害され、殉教した。誰が嘘のために死ぬだろうか。イエスの死体を隠して益を得るのは弟子たちだが、もしそうなら、嘘だと知っていながら命がけで宣教するだろうか。

困惑の原理

作り話の場合には、都合の悪いことは隠される。
当時、女性の証言は信用されなかった。しかし復活の最初の証人は女性である。

4つの福音書には一見矛盾とも思える食い違いがある。この食い違いはむしろ信ぴょう性を高める。
もしある事実の目撃者を数人呼び出し、個別に証言を聞き取ったなら、詳細までまったく一致することはありえない。もし一致した場合は口裏を合わせたと疑われるだろう。

聖書をどう読むか

聖書の歴史的信憑性、内的一貫性は確かである。そしてイエスという偉大な人物が自らを神の子、救い主としたのは、妄想か、詐欺か、真実かのいずれかである。様々観点から検証、判断して、私はイエスという人物は神の子であると認める。そしてその救い主による人類の救済に至る壮大な神の計画を、聖書(創世記冒頭の創造物語を含めて)が我々に示していると信じる。

創世記の創造物語は、そのような視点で読むのが正しい読み方であり、生物学を議論するためでないのである。

終わりに

 進化論と創造論について長々と書き連ねてきたが、ある人にとっては自明のことで「何をいまさら」という感想も聞こえてきそうである。
 しかし人が一度確信した信念を、そう簡単に変えることは難しい。特に若いときに確信したものであったり、人生を大きく変えた信念である場合尚更である。すでに認知バイアスもかかっているだろうから、何でも都合の良いように、すなわち自分の信念を変えないように、今までの自分の生き方を否定しない方向に解釈しがちである。特に信仰に関わる事柄を軌道修正するのは難しい。人間は変わることを望まない。
 それ故にこの記事をまとめるために、多くの書物を読み、思索し、迷いながら数年を費やしたのは当然であろう。
 この稚拙な記事が、同じような疑問に悩む方々の参考になれば幸いである。




参考・引用文献

リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳「神は妄想である―宗教との決別」早川書房、2007年
A・E・マクグラス、J・C・マクグラス著、杉岡良彦訳「神は妄想か?」教文館 2012年
フランシス・コリンズ著、中村昇、中村佐知訳「ゲノムと聖書」NTT出版 2008年
A・E・マクグラス著、稲垣久和、倉沢正則、小林高徳訳「科学と宗教」教文館 2009年
ジョン・ポーキングホーン著、小野寺一清訳「科学者は神を信じられるか」講談社 2007年
ジョン・ポーキングホーン著、小林徹郎、松本武三訳「世界・科学・信仰」みすず書房 1987年
山中伸弥、益川敏英著、「大発見の思考法」文春新書 2012年
チャールズ・ダーウイン著、渡辺政隆訳「種の起源」(上下)光文社 2010年
フランシスコ・J・アヤラ著、藤井清久訳「キリスト教は進化論と共存できるか」教文館 2008年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙の起源」つくばクリスチャンセンター 1997年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙創造と時間」いのちのことば社 1999年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「創世記の謎を解く」いのちのことば社 2000年
デレク・キドナー著、遠藤嘉信、鈴木英昭訳「創世記・ティンデル聖書注解」いのちのことば社 2014年
内井惣七著、「ダーウインの思想―人間と動物のあいだ」岩波新書2009年
スティーブン・ジェイ・グルード著、「神と科学は共存できるか」日経BP社 2007年
バーナード・ラム著 「聖書解釈学概論」 聖書図書刊行会1978年

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