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日本人の知らないキリスト教の影響

「日本人は、昔からお寺で葬儀をしたり、神社で結婚式をしたりしており、キリスト教は後から入ってきた」と思っている人もいるが、とんでもない。

 昔は葬儀など行われず、死体は汚れたものとして最下層の非差別民に始末させていた。貧しい者は川などに放置された。
 戦国時代、キリシタンが丁寧に葬儀と埋葬をする姿に日本人は感動したと伝えられている。お寺が葬儀を行うのは後に檀家制度ができてからである。

 ★檀家(寺請)制度はキリシタン取り締まりのためであった。

 徳川幕府は、キリシタンでは無いという証として(宗門改)、すべての人を寺に所属させ、事実上の戸籍の管理を任せた。日本人は幕府により仏教徒にさせられたのだ。

 寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。

 ★町内会の起源は、キリシタンを取り締まる五人組であった。

 徳川幕府は、キリシタンや浪人の取り締まりのために五人組制度により、連帯責任、相互監視の統治組織とした。これが昭和初期の隣組を経て、その活動の一部は町内会、自治会に引き継がれている。もちろん相互監視や思想統制の役目は、戦後GHQにより隣組が解体されるまでのことである。

 また、明治政府は明治4年に民衆を神社の氏子とする氏子調(うじこしらべ)を発令する。これは檀家制度を神道に置き換えたものである。明治6年(1873年)のキリスト教禁止政策取り止めに伴い、氏子調もわずか2年で廃止されたが、一村一社での氏神-氏子意識を定着させるなど、後の神社神道への礎となった。
自治会と神社の密接な関係は、現代まで続いている。


また、七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以後のことある。


 このように一部の貴族階級を除いて、一般民衆は為政者により、(キリスト教を排除するために)仏教徒や氏子にさせられたのである。

 「うちは先祖代々何々宗だ」という人には、ほんとにそうなのか考えてみることをお勧めしたらよい。

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こころ教と原理主義

この仏教学者の話は、妙に納得がいく。 キリスト教についても同じことが言える。 「気休めの福音」に満足できない人は「原理主義」に行く。極端になる。 あるいは見えるものに頼る。異言、いやしなど。 ここから引用。 仏教学者 佐々木閑 日経ビジネス オンライン 「宗教崩壊」 2015/6/6 人が集まればよいのではない、仏教で生きていきたいと思う人がどれだけ増えるか。 「その人の人生を引き受ける」覚悟を示すこと。 僧侶が本気で教義を信じていない。 科学とうまくすり合わせできないことを、「心の問題」に置き換えて解釈しようとするのは仏教だけに限りません。キリスト教、イスラム教も今、同じようなことを言いだしています。すべてのものを、心の中に落とし込んでいく手法です。  私は、現在起こりつつある、こういった宗教の一元化を、「こころ教」と呼んでいます。私の造語ですけどね。これからの宗教は、「こころ教」へと向かいます。その証拠に今、どの宗教もキャッチフレーズが同じになっています。  「こころ教」のキャッチフレーズにはキーワードがあります。それは「心」と「命」です。動詞では「生きる」です。この3つのキーワードで、どの宗教もキャッチフレーズを語るようになっています。例えばある仏教教団のキャッチフレーズは「今、いのちがあなたを生きている」です。一体、何を言っているのか分かる人がどれだけいますか? 「こころ教」がこれからの宗教の姿です。「こころ教」は、万人に受け入れられます。なぜかというと特殊性がないから。万人には受け入れられますが、その人の人生を丸ごと救う力はありません。つまり、気休め以上のものにはならない。 本当に絶望している人は「こころ教」でなく「原理主義」のほうへいきますよ。 私はここで、「原理主義」という言葉を悪い意味で使っているわけではないのです。ここでの原理主義とは、本来の宗教が果たす役割を担った少数の人たちのことです。つまり本来の教団の教えをそのまま受け継いでいく人たちです。
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「死んだ後、天国か地獄」は聖書の教えか?

「死んだ後、神を信じる者の魂は天国で永遠に生き、信じない者の魂は地獄で永遠に苦しむ」という意味であれば、答えはNOです。

これは聖書の教えではありません。
多くのクリスチャンも誤解しているのではないでしょうか。

日本人であれば、魂が雲の上のようなところで生きるのが天国だというイメージは仏教の影響ではないでしょうか。

西洋人であれば、ギリシャの霊肉二元論の影響だと言われています。

それでは聖書にはどう書いてあるのでしょうか?

山崎ランサム和彦氏のブログを参考にさせていただきました。

1 天国という言葉の誤解

 聖書には、
「天の国」(口語訳聖書では「天国」)、
「神の国」、「御国」、
「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)、
「ゲヘナ」(口語訳、新共同訳では「地獄」)、
「ハデス」(新共同訳では「黄泉」)と
いう言葉が出てきます。

 ここで「天の国」はマタイ福音書のみの表現で、天はユダヤ人にとって神の婉曲的表現で、「神の国」と同じです。「御国」も「神の国」と同じです。

 したがって、
「神の国」と「パラダイス」が信仰者の行くところ、
「ゲヘナ」と「ハデス」が不信仰者が行くところです。

2 神の国とは何か

 イエスの宣教の始めに、「神の国は近づいた」と言われました。(マルコ1:15)
 また祈りの中で、「御国がきますように」と祈れと言われました。(マタイ6:10)

 ここから「神の国」は私たちが行くところではなく、この世界に「来る」ものだということがわかります。そして「みこころが天で行われるように地でも行われる」こと、すなわち神の支配がこの地に実現することです。
 またパリサイ人の質問に対しても、「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われました。(ルカ17:21)これは心の中にあるという意味ではありません。現実の世界で始まっているということです。

 口語訳聖書でマタイ福音書の「天の国」を「天国」と訳したために、誤解が生じているのではないでしょうか。
 しかし「天の国」=「神の国」は今見たように、死んでから行くところではありません。


 これに対して「パラダイス」ということばは、一般にイメージする「天国」に近いかもしれません。
 イエスと共に十字架につけられた犯罪人のひとりは、「今日、わたしともにパラダイスにいる」と言われました。(ルカ23:43)
 またパウロは、生きたまま「パラダイス」に引き上げられた特殊な経験をしました。(2コリント12:4)

 「パラダイス」は死者の魂の一時的な場所と考えられますが、それ以上聖書は詳しく述べていません。
 しかし「神の国」でないことは明らかです。

3 最終的な希望

 この世界の最終的な希望は、キリストが再びこの世界に来られて、「新しい天と地」が創造されることです。「神の国」の完成です。(黙示21:1)
 創世記において神は天と地を創造しましたが、人間の罪により、この世界は堕落してしまいました。黙示録において、神は再び天と地を創造し、そこで復活の体を持った私たちが世界を管理するのです。

 私たちは死んで魂だけが残るのではなく、新しい体が与えられると聖書は教えています。(1コリント15章)
 魂だけが雲の上のようなところで永遠に生きるのではなく、「体を持って」、神が王として完全に支配する神の国である「新しい地」で永遠に生きるのです。

 これが聖書の示す最終的な希望です。パラダイスは一時的なところに過ぎません。

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