「ヤバい神」出版記念トークライブに参加して

コラム
06 /26 2022
トーマス・レーマー著『ヤバい神』出版記念トークライブ「旧約聖書の神がヤバいってマジ!?」に参加(YouTubeライブ)しました。

新教出版社から出版されているようですが、「どうせ受けを狙ったネーミング」程度に思っていました。

しかし、この「ヤバい」ということばの現代的意味が、旧約聖書を読んだとき私たちが直面し、また困惑する神を現わすのにこんなにぴったりとは思いませんでした。

女、子供の殺害を命じる「ヤバい神」、同時にどこまでもイスラエルを愛し、救おうとする「ヤバい神」、ひどい、怖い、と同時にすごい、すごすぎる、「まじ神ってる」。

原題は「DARK GOD」らしいですが、この日本語タイトルを考えた編集者、あっぱれです。

と言いながらまだ中身を読んでいない私です。
さっそく注文したので、果たしてどんなふうにこの神を解説してくれるのか、楽しみです。

この対談の中で、翻訳したのが学者ではなく、編集者の方だったこと。(しかもロン毛の。これは余計か、でも印象深かったので。)
学者が翻訳することの問題点、編集者としての苦労(一文字でも変更すると激怒する学者とか。)がおもしろかった。
この本は学者じゃない人が翻訳したことで、とてもわかりやすいと、同席した旧約学者の日高氏も太鼓判。
そもそも学者は翻訳本ではなく、原書を読む、だから翻訳本は一般人にわかりやすくないと意味がないという。なるほど。

日高氏がうれしそうな顔で最新の旧約聖書学を(マニアックに)解説してる姿がおもしろい。出版の予定があるそうなので、この人も本も読んでみたい。

「福音派の人はきっとこの本は買わない」というコメントがあったので、「わたし福音派ですが買います」と返した。
もっとも私は福音派の異端児だが。
福音派の中でもうやむやにされている旧約の神の蛮行の問題を、この際はっきりさせようではないか、と思う。

YouTubeでアーカイブが公開されているようなので、興味ある方はご覧あれ。

福音の再発見

コラム
06 /11 2021
 私が信仰を持った十代の頃の福音の理解は、イエス様が私の罪のために十字架にかかり3日目によみがえったこと、それを信じる者は救われて天国に行くことができる、そしてイエス様はこの悪の世界を滅ぼすためにもう一度来られるということでした。救われた私たちは人々が救われるように伝道することが生きる意味でした。この世界は悪であり、滅ぼされるべきものでしかありませんでした。

 しかし数十年たった2017年頃、N・T・ライトの著書「クリスチャンであるとは」「シンプリー・ジーザス」などを読み、福音や神の国の理解が大きく修正されました。今までなんとなくももやもやしていたものが、霧が晴れるような気がしました。福音書のイエス様のメッセージがはっきり見えてきたのです。
 そして「シンプリー・ジーザス」の訳者である山口希生師を囲んでOCCで毎月1回開かれた読書会に参加して、同じ思いを持つ参加者の方々と共に、新たな福音理解、いや本来の福音理解へと導かれました。

 死んだ後天国に行くことが最終ゴールでもなければ、それだけが福音ではない、天と地が新しくされて神の国が来る、いやすでに神の国が始まっている、イエス様が王となられた、これこそが福音であり、私たちの最終的希望なのだと知りました。

 若い頃から聖書を学ぶために「聖書を読む会」のテキストを使っていましたが、2018年に「救いの基礎」というオリジナルテキストが発行されました。そのテキストはまさにその福音理解に沿ったものでした。
 発行に伴い総主事の島先克臣氏が「神のご計画ー世界の創造から完成まで」と題してセミナーを開いてくださいました。島先氏が宣教師であった頃に面識がありましたが、氏がこのテキストを作成した経緯をご自身の経験を通して語って下さり、このような福音理解が広まってきていることを実感しました。

 この理解に至る前には福音書がいまひとつしっくりと理解できませんでした。十字架と復活の大切さはわかるものの、そこに至るまでのイエス様の教えは私たちがいかに罪深いかを教えるもので、いやしや奇跡はご自身が神の子であることを証明するためという理解でしかありませんでした。

 そして福音書の最初に書かれている「イエスは福音を宣べ伝えた」という「福音」とは何なのか。「福音」が十字架と復活を信じて救われることであるなら、まだ十字架と復活のことは誰にも明らかにしていないはずなので、そこが引っかかっていたのです。

 思い返せば救われた当時の教会では、新約聖書の書簡がよく読まれていて、そこから信仰というもの、そしてどう生きるかということを学ぶことが多く、福音書から学ぶことが少なかったように思います。信じた後は福音書はもう卒業したかのように。

 ところが、神の国が来ている、世界は新しくなるというイエス様の福音を知ったとき、福音書にかかっていた霧がすっかり晴れていきました。その視点で見ると実は使徒パウロも同じことを言っていることがわかりました。実は教会で毎週唱えられている使徒信条や主の祈りにも、天国へ行くという事柄は無く、「かしこより来りて(天からイエスが再び来て)」とか、「御国が来ますように」という神の国への希望があることに、なぜ気づかなかったのだろうと思います。
 「神の国は近づいた」というイエス様のメッセージこそが「福音」であり、神の国とは何なのかを教え、また癒しと奇跡をもって神の国を現わしてくださったのです。そして私たちが神の国に入るためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。しかしその神の国とはいわゆる「天国」ではなく、回復された新しい天と地なのです。

 聖書を読む会の「救いの基礎」と「神のご計画」はこの聖書理解を学ぶための手ごろなテキストです。じっくり学ぶための書籍は以下がお勧めです。

福音の再発見 スコット・マクナイト
クリスチャンとは N・T・ライト
シンプリージーザス N・T・ライト
わが故郷、天にあらず ポール・マーシャル
聖書六十六巻を貫く一つの物語

異言の賜物ばかりなぜ求めるのか?

コラム
02 /11 2021
ペンテコステ系の牧師、教会は盛んに異言賜物が与えられるように求めるべきという。
彼らが良く引用するのは1コリント14章5節である。

  「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、」

みんな異言を語るべきだ、というのだ。
しかしこの続きを無視している。

 「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのはあなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。」

異言を求めましょう、とは聞くが預言を求めましょうとは聞かない。
異言を語るところで、その解き明かしを聞いたことがない。

その前の3節で、預言は人を育て、勧め、慰めるとある。

預言のほうが役に立つことは明白である。

なのになぜ、異言ばかりを欲しがるのか?

「聖霊のバプテスマを受けて、異言が与えらえて、喜びがあふれてきた」というような話を聞くと、そんな経験の無い私は、嫉妬心から、「そんなの一時的な感情さ」と思ってしまう。

しかし、そんな自分に嫌気が差すと、異言を求めてみようかなとか何度か思った。
でたらめ言葉を口にしようと思えばできそうだが、やっぱり性に合わないことはやめておこうと思ってやめる。

やはり聖書からはっきり必要性を確信するまでは、「よりすぐれた賜物を求めなさい」(1コリ12:31)という言葉に従い、預言と愛を求めることにしている。



あとの者が先になり、先の者があとになる

コラム
12 /28 2020
あとの者が先になり、先の者があとになるものです。(マタイ20:16)

先日、夢の中でこのイエスのことばが浮かびました。
神様が私の心の奥底に語りかけて下さったのだと思います。

この言葉はペテロが

  「私たちは(あの青年とは違い)何もかも捨てて従ってきました。何がいただけるでしょう」

という問いに対して語られ、続くぶどう園のたとえの最後に、

  「一時間しか働かなった者に私たちと同じ賃金を払うのか」

と不満を述べる人たちに語られました。

人より前に、彼より上に、と比較し、競争することを強いられてきた人もいるでしょう。

私たちは人と比較することで自分の価値を確かめようとします。

人の目には「後のもの」と見えるものが、神の国では「先になる」のです。

私たちの狭い視野で比較するとの愚かしさを教えられます。

私自身、いつまでたってもそんな心のくせから抜け出せないのです。

人と比較するとき、神と関係も人との関係も不安定なものになっていきます。

神の国は「報酬ではなく恵み」「行いによらず、恵みによる」のです。

神様が私たちに与えておられる恵みは、私たちの働きや業績などとは比べられないほど大きなものです。

ルカ15章の放蕩息子のたとえでは、兄息子が弟に嫉妬して不満を述べていますが、父は

 「私のものは全部おまえのものだ」

と言います。兄は自分に与えられているものに気づいていなかったのです。

「わたしはここにいるよ」 ~コロナ禍で迎えるクリスマスに思う その3~

コラム
12 /24 2020
「わたしはここにいるよ」
~コロナ禍で迎えるクリスマスに思う その3~

今年は人とのつながりについて考えさせられる年でもありました。

コロナ禍によって外出も集まることもできなくなって、孤独を味わったり居場所を失ったりした人もいるでしょう。

テレワークでメンタルに変調をきたす方もおられるようです。

一方で煩わしい人間関係から解放されたということもあるかもしれません。

あなたは誰といるときに一番安らぎを感じるでしょうか?

このクリスマスにいまいちど、

「わたしはここにいるよ」

という神様の声を聴きたいと思います。

"「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)" マタイの福音書 1章23節

"見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」" マタイの福音書 28章20節

いつも共におられる神様からくる平安、慰め、希望が、来る一年も皆様の上に豊かにありますように。

メリー・クリスマス!

Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)