牧師は先生??

コラム
11 /15 2023
「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」マタイ23:8
9月に岐阜市で開かれた「日本伝道会議」(プロテスタントの福音派が7年に一度行う集会)で、運営するスタッフの牧師同士がお互いに「〇〇先生」と呼ばないという取り決めをしていたということが話題となった。

プロテスタントのキリスト教会で牧師を「先生」と呼ぶ習慣は日本独特であり、その弊害については、ずっと前から指摘されてきた。

主イエスがマタイ23章で「先生と呼ばれてはいけない」と命じられたが、主イエスの意図も後藤氏の主張も、単なる呼称の問題ではなく、そこに牧師と信徒の関係性を歪める問題が潜んでいるからである。

日本では、医者や弁護士、国会議員など、権威のある人に対して「先生」と呼ぶ。これは中国語の「先生」とは違う日本独特の意味が込められている。
その日本で牧師を先生と呼ぶことは、牧師と信徒がどういう関係性なのかを暗黙の内に規定している。日本独特の縦社会の権威構造が、教会の中に持ち込まれてしまう。

さらに後藤氏の指摘によれば、医者や弁護士の権威はその人の全生活や全人格の領域までは及ばない。しかし牧師の権威はややもすれば信徒の全人格にまで影響し、それが永続的に続くのである。

もちろん、ほとんどの牧師は権威を振りかざすような方々ではなく、私も多くの尊敬すべき牧師を知っている。しかしその関係性が信徒の側で強く意識されているのは事実である。
教会に来て福音に触れ、救われて教会に初めて加わる多くの日本人は、牧師を「先生」と呼ぶ文化の中に「教会とはそういうもの」と思い込んでいくのだろう。私自身もそうであった。

しかし、そこでは健全は信徒の成長は期待できない。
社会全体が縦型の構造から、フラットで個人の尊重される社会に移行しつつある。インターネットの発達もそれを加速している。
学校教育も一方的な教育から、双方向的な学びへと変わろうとしている。
そのような時代に前時代的な教会のあり方で信徒が育つだろうか。
それどころか、カルト的とさえ誤解されかねない危険性をはらんでいる。

牧師の高齢化、牧師不足が深刻であることは今回の伝道会議に合わせて発行された「宣教ガイド2023」でも明らかで、信徒リーダーの育成が必要である。

そのような意識を持っている若い牧師たちがいることを知り、少しは安心した。
最近は「牧仕」や「牧士」という肩書を使う方も増えてきたようだ。
しかし、信徒レベルでその意識が変化するには時間がかかると思う。
今回の取り決めをこの会議中だけにとどめず、勇気をもって変革してくれることを期待したい。

(この原稿を書いている途中で、この議論をしている動画を発見しました。)

キリスト者はイスラエル支持??

コラム
11 /15 2023
一部のキリスト教系団体やYouTube牧師は、「キリスト者はイスラエルを支持」と断言しているが、決してそうではない。あくまで一部である。

私の信仰に基づく良心に従うならば、どちらに与することもなく、双方に戦闘をやめることを願う。
紀元前の時代、堕落したイスラエルの国民に対して偽りを語る偽預言者について、神はこのように指摘する。

「わたしが遣わさないのに/預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに/彼らは預言する。
もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、悪の行いから/帰らせることができたであろう。」(エレミヤ書23:21-22)

本当の預言者であるなら、イスラエルの民を悪から立ち返らせるはずだ、と言う。
であるなら、現代のイスラエルに対しても(もちろんパレスチナ側にも)、戦闘をやめ、子供たちを殺すことをやめるよう声をあげるのが、本当のキリスト者ではないだろうか。

たとえ神に選ばれた民族だとしても、悪を行うならば神はさばく、これは歴史が、そして聖書が教える真実である。
「聖書の預言」を強調する現代の偽預言者に注意しなければならない。

「ヤバい神」出版記念トークライブに参加して

コラム
06 /26 2022
トーマス・レーマー著『ヤバい神』出版記念トークライブ「旧約聖書の神がヤバいってマジ!?」に参加(YouTubeライブ)しました。

新教出版社から出版されているようですが、「どうせ受けを狙ったネーミング」程度に思っていました。

しかし、この「ヤバい」ということばの現代的意味が、旧約聖書を読んだとき私たちが直面し、また困惑する神を現わすのにこんなにぴったりとは思いませんでした。

女、子供の殺害を命じる「ヤバい神」、同時にどこまでもイスラエルを愛し、救おうとする「ヤバい神」、ひどい、怖い、と同時にすごい、すごすぎる、「まじ神ってる」。

原題は「DARK GOD」らしいですが、この日本語タイトルを考えた編集者、あっぱれです。

と言いながらまだ中身を読んでいない私です。
さっそく注文したので、果たしてどんなふうにこの神を解説してくれるのか、楽しみです。

この対談の中で、翻訳したのが学者ではなく、編集者の方だったこと。(しかもロン毛の。これは余計か、でも印象深かったので。)
学者が翻訳することの問題点、編集者としての苦労(一文字でも変更すると激怒する学者とか。)がおもしろかった。
この本は学者じゃない人が翻訳したことで、とてもわかりやすいと、同席した旧約学者の日高氏も太鼓判。
そもそも学者は翻訳本ではなく、原書を読む、だから翻訳本は一般人にわかりやすくないと意味がないという。なるほど。

日高氏がうれしそうな顔で最新の旧約聖書学を(マニアックに)解説してる姿がおもしろい。出版の予定があるそうなので、この人も本も読んでみたい。

「福音派の人はきっとこの本は買わない」というコメントがあったので、「わたし福音派ですが買います」と返した。
もっとも私は福音派の異端児だが。
福音派の中でもうやむやにされている旧約の神の蛮行の問題を、この際はっきりさせようではないか、と思う。

YouTubeでアーカイブが公開されているようなので、興味ある方はご覧あれ。

福音の再発見

コラム
06 /11 2021
 私が信仰を持った十代の頃の福音の理解は、イエス様が私の罪のために十字架にかかり3日目によみがえったこと、それを信じる者は救われて天国に行くことができる、そしてイエス様はこの悪の世界を滅ぼすためにもう一度来られるということでした。救われた私たちは人々が救われるように伝道することが生きる意味でした。この世界は悪であり、滅ぼされるべきものでしかありませんでした。

 しかし数十年たった2017年頃、N・T・ライトの著書「クリスチャンであるとは」「シンプリー・ジーザス」などを読み、福音や神の国の理解が大きく修正されました。今までなんとなくももやもやしていたものが、霧が晴れるような気がしました。福音書のイエス様のメッセージがはっきり見えてきたのです。
 そして「シンプリー・ジーザス」の訳者である山口希生師を囲んでOCCで毎月1回開かれた読書会に参加して、同じ思いを持つ参加者の方々と共に、新たな福音理解、いや本来の福音理解へと導かれました。

 死んだ後天国に行くことが最終ゴールでもなければ、それだけが福音ではない、天と地が新しくされて神の国が来る、いやすでに神の国が始まっている、イエス様が王となられた、これこそが福音であり、私たちの最終的希望なのだと知りました。

 若い頃から聖書を学ぶために「聖書を読む会」のテキストを使っていましたが、2018年に「救いの基礎」というオリジナルテキストが発行されました。そのテキストはまさにその福音理解に沿ったものでした。
 発行に伴い総主事の島先克臣氏が「神のご計画ー世界の創造から完成まで」と題してセミナーを開いてくださいました。島先氏が宣教師であった頃に面識がありましたが、氏がこのテキストを作成した経緯をご自身の経験を通して語って下さり、このような福音理解が広まってきていることを実感しました。

 この理解に至る前には福音書がいまひとつしっくりと理解できませんでした。十字架と復活の大切さはわかるものの、そこに至るまでのイエス様の教えは私たちがいかに罪深いかを教えるもので、いやしや奇跡はご自身が神の子であることを証明するためという理解でしかありませんでした。

 そして福音書の最初に書かれている「イエスは福音を宣べ伝えた」という「福音」とは何なのか。「福音」が十字架と復活を信じて救われることであるなら、まだ十字架と復活のことは誰にも明らかにしていないはずなので、そこが引っかかっていたのです。

 思い返せば救われた当時の教会では、新約聖書の書簡がよく読まれていて、そこから信仰というもの、そしてどう生きるかということを学ぶことが多く、福音書から学ぶことが少なかったように思います。信じた後は福音書はもう卒業したかのように。

 ところが、神の国が来ている、世界は新しくなるというイエス様の福音を知ったとき、福音書にかかっていた霧がすっかり晴れていきました。その視点で見ると実は使徒パウロも同じことを言っていることがわかりました。実は教会で毎週唱えられている使徒信条や主の祈りにも、天国へ行くという事柄は無く、「かしこより来りて(天からイエスが再び来て)」とか、「御国が来ますように」という神の国への希望があることに、なぜ気づかなかったのだろうと思います。
 「神の国は近づいた」というイエス様のメッセージこそが「福音」であり、神の国とは何なのかを教え、また癒しと奇跡をもって神の国を現わしてくださったのです。そして私たちが神の国に入るためにイエス様は十字架にかかってくださったのです。しかしその神の国とはいわゆる「天国」ではなく、回復された新しい天と地なのです。

 聖書を読む会の「救いの基礎」と「神のご計画」はこの聖書理解を学ぶための手ごろなテキストです。じっくり学ぶための書籍は以下がお勧めです。

福音の再発見 スコット・マクナイト
クリスチャンとは N・T・ライト
シンプリージーザス N・T・ライト
わが故郷、天にあらず ポール・マーシャル
聖書六十六巻を貫く一つの物語

異言の賜物ばかりなぜ求めるのか?

コラム
02 /11 2021
ペンテコステ系の牧師、教会は盛んに異言賜物が与えられるように求めるべきという。
彼らが良く引用するのは1コリント14章5節である。

  「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、」

みんな異言を語るべきだ、というのだ。
しかしこの続きを無視している。

 「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのはあなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。」

異言を求めましょう、とは聞くが預言を求めましょうとは聞かない。
異言を語るところで、その解き明かしを聞いたことがない。

その前の3節で、預言は人を育て、勧め、慰めるとある。

預言のほうが役に立つことは明白である。

なのになぜ、異言ばかりを欲しがるのか?

「聖霊のバプテスマを受けて、異言が与えらえて、喜びがあふれてきた」というような話を聞くと、そんな経験の無い私は、嫉妬心から、「そんなの一時的な感情さ」と思ってしまう。

しかし、そんな自分に嫌気が差すと、異言を求めてみようかなとか何度か思った。
でたらめ言葉を口にしようと思えばできそうだが、やっぱり性に合わないことはやめておこうと思ってやめる。

やはり聖書からはっきり必要性を確信するまでは、「よりすぐれた賜物を求めなさい」(1コリ12:31)という言葉に従い、預言と愛を求めることにしている。



Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)