イエス様の祈りに支えられて

聖書から
11 /13 2022
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31,32)

イエス様が「あなたのために祈った」と言えば、もちろんそれは社交辞令ではなく、私たちにとっては何よりの慰めのことばです。
いえ、単なる慰めを越えた希望がそこにあります。

もうすぐペテロが恐れから「イエスなど知らない」と三度も言ってしまうことを知っていたイエス様は、「ペテロ、あなたのため祈ったよ」、と言われました。
このときのペテロにとっては訳がわからなかったでしょう。しかし実際にペテロがイエス様を裏切り、泣き崩れたとき、きっとこのイエス様のことばを思い出したでしょう。

そしてペテロが立ち直ることを見越して、立ち直ったら他の兄弟たちを力づけなさい、とお命じになりました。

ペテロのこの失敗は4つの福音書すべてに記され、今に至るまで伝えられてきました。
初代教会のリーダーの失敗談は、2千年に渡って非常に多くの人々を慰め、力づけてきたことでしょう。

仲間を励まし、力づけるのは、多くの場合、成功体験ではなく失敗体験ではないでしょうか。

今もイエス様は私たちひとりひとりのために、とりなしをしておられるます。(ローマ8:34)

私も、友のために祈り、自分の失敗も恥とせず、友を励ます者となれたらと思います。

隠れた神

聖書から
08 /26 2022
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)

神様はなぜ、隠れたところにおられるのでしょうか。

それは、ありのままの私の声を聞きたいからです。

誰の目も気にする必要のないひとりきりの場所で、

誰にも聞かれない隠れた場所で、

私のすべてをご存じの方の前で、偽る必要も着飾る必要もない神の前で、

私を愛し、恵もうと待っておられるお方と二人きりの場所で、

私のすべての心を絞り出して、神様に祈るとき、

人の賞賛や栄誉よりもはるかに優る、神の報い、恵み、平安が与えられます。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。 神は、われらの避け所である。(詩篇62:8)

私は神様の宝、神様の真珠

聖書から
07 /18 2022
私は神様の宝、神様の真珠
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46 新共同訳)
今まで、宝、真珠とは天の御国、神の国のことで、私たちにとって、すべてを売り払うほど価値がある、と解釈してきました。手元にある複数の注解書も同じ解釈でした。
ところがある本を読んでいて違う解釈もあると知りました。
宝、真珠とは私のことであり、神様がすべてを売り払って買い取ってくださった、
そう、イエス様を十字架につけるという大きな代償を払ってくださったのです。
「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ43:4)
聖書ってすごいですね。いつも新しい発見があります。
(天の国は次のようにたとえられる、という新共同訳の訳文がもっとも原文に近く、前後の文脈からもこの解釈は可能だと思います。この解釈を取っている牧師は複数名確認できています。)

父、母を捨てる?? どうか一般人にわかる翻訳を。

聖書から
06 /26 2022
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19:29)

「父、母を捨てる」という言葉は、日本人一般にとってつまづきとなりやすい言葉です。
カルト宗教と同一視されかねません。また「父と母を敬え」という十戒と、どう整合させるのか。
そこで私なりに調べてみました。

英語の聖書では、この「捨てる」という言葉は、「leave」が使われています。
And everyone who has left houses or brothers or sisters or father or mother or・・

さらにギリシャ語原文では、「去る」「離れる」「残す」「赦す」など、多様な意味を持った言葉です。
特に「罪を赦す」という文ではすべて、このギリシャ語が使われています。
同じ言葉が以下のように訳されています。

そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ8:11)
捕らわれ人に解放を(ルカ4:18)
私たちの負いめをお赦しください。(マタイ6:12)
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(ルカ5:20)

そこからこの原文の訳は、「離れる」がもっとも適切ではないかと思います。
「罪を赦す」ということも、罪から離す、自由にするという意味で理解できます。

『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。(マタイ19:5)

このみことばが、両親から自立することを「離れる」と表現しているように、イエス様は、家、兄弟、姉妹、父、母、子などから自由になり、自立して神に従うよう招いているのではないでしょうか。

人は親離れして、自立することが大切です。特に両親の束縛、虐待などで逃げられなくなっている人は、そこからどうやって離れて、自立していくかが重要です。

神に従うことを妨げるものから、解放され、自立して従っていくことと、「父と母を敬う」ことは矛盾しません。
一時的は「離れる」ことを余儀なくされるかもしれませんが、やがて「その幾倍」にもなって、祝福の内に家族を得ることができるとイエス様は約束してくださいます。

この解釈に対して異論を持つ方もおられるでしょう。
私は専門家ではありませんのでご了承ください。

聖書全体を見れば、そんなことは明らかだ」という反論もあるでしょう。
であれば、「聖書全体を見て」この箇所を翻訳していただきたいです。

聖書は学者のものではありません。また信者だけのものでもありません。
一般の日本人に読まれてこその、聖書翻訳ではないのでしょうか。

神様のあたりまえ

聖書から
04 /10 2022
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。(ルカ15:32)

ルカ福音書15章は、聖書の中の聖書福音の神髄といっていいでしょう。

神について、罪について、悔い改めについて明らかにしてくれると同時に、この3つについて私たちが思っていた「当たり前」と、神の「当たり前」が大きく違うことも明らかにしてくれます。

神は「罪人が嫌いで、退けて、裁く方」ではなく、「失われた大切な存在として見つけるまで探す方」です。

罪とは、単に「戒めを破ること」ではなく、神の無条件の愛を信じないで、自分勝手に生きることです。

悔い改めとは、「自分の努力」ではなく、神のもとに帰り、神の招く喜びの祝宴に加わることです。

Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)