パリサイ人にまさる義 マタイ5章13-20節

聖書から
03 /25 2024
5:13-16 天の父があがめられるように

イエス様は「あなたがたは地の塩です」、「あなたがたは世の光です」と言われました。
塩の役割とは何でしょうか。腐敗を防ぐ、味を付けるなど、思いつくでしょう。私たちが塩であるなら、私たちが味を付けるとはどういうことでしょうか。無味乾燥とか味気ないいうことばがありますが、反対に私たちの存在が人々の中で「味わい」となるような、そんな人になりたいと思います。また人々を照らす光のような存在になれたらと思いますね。
しかし、それは私自身から出たものではありません。「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われたように、私たちはイエス様の光を頂いて輝くのですね。
自分の力で地の塩、世の光に「なる」のではなく、「(今、すでに)あなたがたは地の塩、世の光です」と言われています。その与えられた塩が塩気をなくしたり、イエス様の光を隠したりしないようにしましょう。

また私たちの「よい行い」とは、私たちではなく、「天の父があがめられる」ような行いです。(16節)私たちが父の祝福(5:3-10)の中に生きる姿を見て、人々が背後におられる神様を讃えることが大切です。
 
5:17-20 パリサイ人の義にまさる義
イエス様はパリサイ人らが罪人の烙印を押す人々を受け入れました。しかしそれは罪などどうでもいいということではありません。「律法の一点一画もすたれることはない」のです。イエス様は「律法と預言者を成就する(満たす、完成させる)ために来た」と言われました。
そして21節以降で「ばか者」というだけで殺人と同じだ、というようなイエス様の言葉を聞き、イエス様の教えは厳しいなあ、と誰もが思い、意気消沈してしまうでしょう。

イエス様は私たちの罪深さを示し、意気消沈させるためだけに山上の説教を語られたのでしょうか。正直私自身、この学びをするまではそのように感じていました。この箇所をどのように皆さんにお話しするべきかと悩み、たくさんの神学書を読んで、そうではないことがわかりました。

それによって「山上の説教」の読み方が大きく変えられました!

19節には、律法を破ったり、そう教える者は「天の御国で最も小さい者」だと言われます。
しかし、20節では「あなた方の義が、パリサイ人らの義にまさっていなければ、天の国に入れない」と言われています。破った者は、最も小さい者と言われても天の御国にはいるようです。しかしパリサイ人の義では入れないというのです。不思議なことばですね。

では「あなたがたの義」とはどんな義でしょうか。
それは「信仰による義」であり、キリストが与えて下さった義なのです(ローマ3:21-24)
まもなくイースターですが、イエス様の復活を信じる者は「義と認められ」ています(ローマ4:25)
6節の「義に飢え渇く者」は神によって満たされるのです。

パリサイ人の義はキリストが与える義とは質が違う義なのです。程度の問題ではありません。
パリサイ人は613の戒めを守ることで義を得ると信じていました。彼らは自分の義、自分が褒められることを求めたのです。先ほどの「天の父があがめられるように」とは真逆なのです。

5:21以降の「殺すな」「姦淫するな」などの教えは、より厳しい倫理を求めているのではなく、律法の本来の目的を明らかにし、パリサイ人の義と、キリストの与える義との決定的な違いを説明しているのです。

先取りするようですが、山上の説教の結論が7章21節にあります。
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という有名はイエス様の教えと同じことを言っています。これがイエス様が完成させる律法と預言者すなわち聖書の本質なのです。
この点を踏まえて、これ以降を学んでいきたいと思います。

祝福宣言 マタイ5章1-12節

聖書から
03 /13 2024
祝福宣言 マタイ5章1-12節

今日から有名なことばが多く含まれる「山上の垂訓」、または「山上の説教」と呼ばれる箇所に入ります。
前回4章の最後で4人の弟子たちと大勢の群衆がイエス様に「従った、ついていった」という記事で終わりました。その「従ってきた」群衆と弟子たちに対して、イエス様はこの有名なお話をされたのです。

3節から11節までは、「何々な者は幸いです」という言葉が続いています。古い英語の聖書では、Blessed are、と言う言葉が冒頭に来ています。これが原語のギリシャ語でも同じで、幸いあるいは祝福されているという言葉が冒頭に来ています。文語訳聖書では「幸福なるかな」で始まっています。

  Blessed are the poor in spirit: for ... (英語)
  Μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι, οτι (ギリシャ語)
  幸福なるかな、心の貧しき者(文語)

日本語の文章では結論が後の方に出てくるので、最後に「幸いです」となりますが、最初に「幸いです」から始まるほうが、聞いたときのインパクトは違いますね。イエス様の時代、教科書もノートもありませんから、弟子は先生の口からでる言葉を真剣に聞かねばなりません。「幸いです、祝福されています」という言葉を聞いた瞬間に弟子たちは、身を乗り出して次のことばを待ったに違いありません。

ところがイエス様は意外なことを語ります。心の貧しい者、悲しむ者が幸いだ、というのです。特に日本人の私たちにとっては「心が貧しい」というのは性格的に嫌われるような人を指しているので、一層違和感があります。しかも「天の国はその人たちのものだ」、つまりそういう人が神の国に入れて頂けるというのですから驚きです。
実は旧約聖書に親しんでいるユダヤ人にとっては、「貧しい」という表現には特別な意味があるのです。

  私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。(詩40:17)
  わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

ヘブライ語で「貧しい」とは「へりくだって」という意味もある言葉で、神の前に自分は何もない、貧しいという意味を持っています。神の前に徹底的にへりくだった者と言う意味なのです。

自分は神の前に何者でもないというへりくだった者、それはイエスの言葉と行いに感動し、従ってきた目の前の人々に他なりません。その人々にイエス様は「祝福されている」と祝福を宣言なさったのです。あなたがたはすでに天の国(神の国)の一員になっているのだから、と言われるのです。

ギリシャ語の文法としては3節と10節の「天の国はその人たちのもの」というのは現在形なのですが、それに囲まれた4節以降、「慰められる、満ち足りる…」は未来形です。(日本語には未来形がないのでわかりにくいですが)天の国に入れられた者たちへの約束と考えてよいでしょう。今は悲しみの中にある人も、必ず神様からの慰めが与えられるでしょう。

「山上の説教」と聞くと、守らなければならない戒めという印象を持つかもしれませんが、まずはじめに、私たちは神様に祝福されている、幸いな者なのだとイエス様は宣言してくださいました。その幸いな者たち、神の国に生きる私たちは、この地上でどう生きるべきか、それを教えているのがこれから学ぶ「山上の説教」だと考えて下さい。

このビデオもとても参考になります。ぜひご覧ください。

神の国の宣教の始まり マタイ4:12-25

聖書から
02 /24 2024
神の国の宣教の始まり マタイ4:12-25

ガリラヤから始まる宣教
17節に「このときからイエスは宣教を開始し」とありますが、どんなときでしょうか。
12節に「ヨハネが捕らえられたと聞いて」とあるように、このときからです。ご自分の前に道を整える者としてのヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられたから、いよいよご自身の宣教を開始されました。
ヨハネがヘロデに捕らえられたいきさつは、14章で明らかになりますが、ここではそのことよりも、イエス様が宣教を始められたことが需要なテーマです。

12節に「ガリラヤに退かれた」とありますが、これはヘロデを恐れて逃げたということではありません。いやむしろ、ヘロデが治めるガリラヤに行き、ヨハネと同じメッセージを宣べ伝え、多くの人々を集めることは、ヘロデを刺激することになります。14章1節では、イエス様をヨハネのよみがえりだと恐れていたことがわかります。

700年前の預言者イザヤも、キリストがガリラヤから宣教を始めることを預言しました。15、16節はイザヤ書9章1ー2節の引用であり、6-7節には有名なメシヤ預言が記されています。
人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ:46)と言うように、首都エルサレムから見れば辺境の田舎町でキリストが宣教を開始するということは予想しなかったのでしょう。
しかしイエス様は権力者が跋扈するエルサレムではなく、政治的にも宗教的にも抑圧に苦しむ田舎町の人々に、闇を照らす光として現れてくださいました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

神への反逆がもたらす罪の闇、それを打ち破る光としてのキリストは来られたのです。

わたしについてきなさい
神の国が近づいたから、悔い改めよ、このメッセージは、旧約を自分たちの歴史として読んできたユダヤ人にとって、衝撃的だったでしょう。神の国とはまさしく闇と死の消えたところであり、ユダヤ人が長く待ち望んだものです。
「悔い改める」ということは、このよき知らせ(福音)に応答し、「わたしについて来なさい」というイエス様の呼びかけに応えることです。

19節 「ついてきなさい」 とは、英語では、come after me、あるいは、follow meと訳されています。私たちは誰についていくか、誰を模範として生きていくかで大きく変わります。イエス様は雲の上から命令されているのではありません。いつも私たちと共にいる「インマヌエルの神」であり、私たちの前を歩んでくださるのです。
自分の努力や信仰深さで、教えを守って生きていくのでありません。そこには苦しみしかありません。失敗しても躓いても、イエス様の姿を見失わずにイエス様と共に歩んでいくのが、キリスト者の信仰生活です。そこに喜びと平安があります。

新興宗教に生活を破棄され、人生を破壊される人々がいます。そんな話を聞くと彼らはどんな神様を信じているのかと疑問になります。神様の顔が見えません。ただ組織の教えに盲従しているだけにしか見えません。キリスト者も教会という組織に盲従するだけなら、同じ運命になりかねません。私たちがついていくべきお方はどなたなのか、よくよく考える必要があります。

20、22節で、弟子たちは職業をやめたり、家族と絶縁したと勘違いしないでください。
聖書全体を読むとそうではないことがわかります。「父と母を敬え」と十戒に記されています。ここでは、イエス様についていくことが最も優先すべきことであると理解してください。

20、21,25節 弟子たちも群衆もイエス様に従いました。 この言葉も英語ではfollow him です。原語でもいっしょに行くという意味があります。

イエス様は、ついてきた弟子たちと群衆に、次の5章からあの有名な山上の垂訓と呼ばれる長いお話を始められます。乞うご期待。

荒野の誘惑(試み)マタイ4章1-11節

聖書から
01 /29 2024
荒野の誘惑(試み)マタイ4章1-11節

「神の子なら」
 イエス様はヨハネの洗礼を受けたとき、天からの声で「神の子」としてあきらかにされました。悪魔は、「神の子、キリストなら、・・・したらどうだ」と誘惑します。神の子かどうかではなく、神の子はどうあるべきかが試されています。
(「・・・しなさい」、よりも新共同訳の、「したらどうか」と言う訳は誘惑をよく表していると思います。)

 誘惑とは、その人にとって決して不可能なことではなく、可能なことで、一見良く見える、魅力的なことに惑わすことです。(創世記3章のアダムとエバへの誘惑を思い起こしてみましょう)悪魔は神の子、キリストなら可能なことで、魅力的な提案をしてイエス様を誘惑します。

イエス様の対応
 イエス様は聖書のことばをもって誘惑を退けました。それによって神の子、キリストはどのようなお方が逆にあらわされています。また、イエス様が引用したのはすべて申命記で、イスラエルの民がエジプトの脱出した後、荒野での40年間の試みで失敗した箇所でした。

第1の誘惑 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 空腹なら神の子としての力を使ったらどうか、その力で人々の空腹を満たしてあげたらどうか。それが救い主なのではないか。そんな風に問いかけています。
 イエス様の答えは 「人はパンだけでなく、神のことばによって生きる」(申命記8:3)
 これはかつてイスラエルの民が空腹で神に不平を言ったとき、神様が教えたことでした。(出エ16:1-5)私たちに食物が必要なことは神様がご存じであり、神様が与えて下さるのです。私たちは神様に生かされているのです。そのことを抜きにしてただ「空腹を満たす」のが救い主ではありません。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

第2の誘惑 「神の子なら、ここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうだ。」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 悪魔は聖書に書かれていることを引用して(詩篇91篇11-12)、「神がこう言ってるのだから、それを人々の前で示したらどうか。そうすれば皆、お前がキリストだと証明されるだろう」と提案しました。
イエス様の答えは 「神である主を試してはならない」(申命記6:16)
 ここでも、イスラエルの民の失敗例があります。彼らは水を求めて、神がいるのか、いないのか試したのです。(出エ17:1-7)我々に求められているのは試すことではなく、信頼することです。イエス様は父なる神様を信頼していたので試す必要はありませんでした。悪魔が引用した詩篇91篇は神への深い信頼を表す詩です。聖書の一部を引用して誤った適用をすることにも注意しなければなりません。

第3の誘惑 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 悪魔は一時的で部分的ではありますが、この世を支配しています。その悪魔が退いてイエス様がすぐにこの世界を支配されるようになるというのです。これは素晴らしいことではないでしょうか。素晴らしい世界、理想の世界がすぐに実現するかもしれません。ただし、神の子が悪魔を拝むという代償つきです。
イエス様の答え 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(申命記6:13)
 イスラエルの民も王も、たびたび偶像礼拝をしていました。神でないものを神とすることがどれほど愚かなことか、何度も何度も神様は教えてきました。そのような誤った方法で神の国は実現しないのです。イエス様はへりくだって人に仕え、人を愛し、十字架と復活を通して私たちの罪を贖い、人を生まれ変わらせ、そのようにして神の国は実現するのです。それが神のご計画です。

 神の子キリストは、奇跡で人を引き付けたり、その力で豊かな生活を与えたり、権力を握って人を従わせたりするために遣わされたのではありません。ひたすら神に信頼し、従い、人に仕え、へりくだり、十字架の道をも歩む「全き人」として生きられたのです。
 全き人として私たちに模範を示されると同時に、全き人であるからこそ、私たちの罪を背負って十字架にかかることのできるお方なのです。

 私たちも、このイエス様に従う道を歩もうとするとき、脇道に誘う声を聞くかもしれません。そのときに神の言葉をもって答えることができるよう、聖書を学び続けたいと思います。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
(ピリピ2:9-11)

マタイ福音書3章 洗礼を受けるイエス

聖書から
01 /14 2024
マタイ3章

洗礼者(バプテスマの)ヨハネ(1-12)

 前回2章では、幼子イエスはナザレに住んだというところで終わっていましたが、3章ではそれから約30年経過しています。
最初の登場人物は洗礼者ヨハネ、あるいはバプテスマのヨハネと呼ばれる人で、キリストの到来に備えてその道を用意する人です。(使徒ヨハネとは別人です)

 彼のメッセージは、「悔い改めよ、天の御国が近づいた」 と記されていますが、これはイエスも(4:17)、弟子たちも(10:7)宣べ伝えた福音(よき知らせ)のメッセージです。「悔い改め」というのは、後悔して善い行いをするということではなくて、「向きを変える」あるいは「立ち返る」という意味です。神に従わず罪を犯していた生き方を改め、神のほうに向きを変える、神に立ち返るということです。「天の国」とは、神の王国、神のご支配という意味で、死んでから行くいわゆる「天国」ではありません。「近づいた」とは、もうすぐそこまで来ているという意味です。

 福音と言うと、私たちは「イエスが私の罪のために十字架にかかり、復活された。それを信じれば死んだ後天国に行ける」というように個人的なことに矮小化しがちです。しかしヨハネ、イエス、そして弟子たちが伝えたのは、「神様がもうすぐ王として世界を支配されるときが近づいている。だから神様に立ち返りなさい。」というメッセージであり、これが福音の本質です。イエスの十字架と復活は、これを実現するためのプロセスなのです。

 ヨハネは悔い改めのしるしとして、洗礼を授けました。しかし悔い改めることなく洗礼を受けようとする人々をヨハネは激しい言葉で叱責しました。悔い改めなしに(すなわち神に立ち返ることなしに)「ただ信じれば救われる(裁きを逃れられる)」というのは、日本人で言うなら「お守りを持っていれば大丈夫」というようなことでしょう。心からの悔い改めが必要です。

「悔い改めにふさわしい実」(8)とはどういうことでしょうか?

 しかし、自分の悔い改めは果たして十分なのかどうか、私たちは自分を拠り所とするとき不安になります。そこでヨハネは「後から来る方」は自分など足元にも及ばない方だとしてキリストを指し示します。キリストは水ではなく、「聖霊と火で洗礼を授ける」と言います。このことをイエスご自身も復活後におっしゃっています。(使徒1:5、そこでは「聖霊による洗礼」で「火」はありません。そのことは後に述べます)

「水によるバプテスマ」と「聖霊と火とのバプテスマ」とは、どう違うのでしょうか?

 「聖霊による洗礼」とは、これ以降聖書には一切登場しない言葉ですが、信じた者が聖霊(神の霊)を受けて新しく生まれかわるということを意味しています。 大切なことは、人の悔い改めと水による儀式よりも、聖霊により内側からきよめる真実の洗礼をキリストは授けるお方だと言うことです(ちなみにイエス様もパウロも水による、イエスの名によるバプテスマ(洗礼)も授けるように(受けるように)命じています。これは個人的なものではなく、教会=神の民のメンバーシップと関係しています。)

バプテスマを受けるイエス(13-17)

 ヨハネが驚いたように罪のないお方がなぜ洗礼を受けたのでしょう? 

 私たちはイエス様が人としての歩みをなされ、私たちの罪のために十字架で死なれたことを知っています。神の国が実現するためには、まず十字架と復活により、私たちの罪が贖われることが必要でした。それが神のご計画でした。しかしヨハネはキリストが来たらすぐに王として支配すると考えていたようです。ですから、裁きもすぐに行われると考えて、「火の洗礼」ということばを使ったのかもしれません。後に自分の期待と違うイエス様に疑いを抱きました。(マタイ11章)しかしイエス様は、「さばくためではなく、救うために私は来た」とおっしゃいます。(ヨハネ福音書3章17節)

 天からの声はイエス様について何を現わしているでしょうか?

 洗礼を受けるとすぐに聖霊がくだり、「これはわたしの愛する子」という天から声が聞こえました。イエス様は全き人として、また神に愛された神の子として証しされました。私たちも、神に立ち返り洗礼を受けたとき、聖霊がくだり、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれるようになったのです。ハレルヤ!
 
補足) 「聖霊と火とのバプテスマ」とは?
  イエス様は「聖霊よるバプテスマ」(使徒1:5、11:16)と言っており、「火」はありません
  これ以降、この言葉は聖書には現れません。解釈はいくつかあります
   ・水に対して「火のような聖霊」というたとえ(ペンテコステ炎のような舌?)
   ・聖霊は救われる人に、火は裁かれる人にくだる(10,12節の火も裁き)
   (ヨハネはキリストが来たら、救いと裁きがすぐに行われると考えていたかもしれません) 

 
 

Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)