スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

進化論と聖書信仰は両立できるか 4

3.神を信じる積極的理由

進化論の問題を保留にしておいても、神を信じる理由はたくさんある。その代表的なものを挙げておこう。

神を発見する方法は大きく分けて2つある。

・自然を通して - 科学が明らかにしてきた、宇宙や生物の驚くべき構造や成り立ちを通して、神を知ることができる。これをキリスト教では一般啓示と言う。

・聖書を通して - 聖書に記された神を知ること、特にイエスキリストの十字架と復活の出来事と、その世界的影響を通して神を知る。これを特殊啓示と言う。


宇宙には始まりがあった

現代ではビッグバンによって137億年前に宇宙が始まったことが分かっているが、過去、宇宙は永遠だと考えられていた。しかしアインシュタインの一般相対性理論によって予測され、観測によって確認されたのである。

聖書は数千年前から、宇宙に始まりがあったことを記す。
存在し始めるもの、運動するものすべてには原因がある。物質(エネルギー)と空間と時間で構成される宇宙を生み出した原因があるはずである。

「ビックバン自体が神の存在を強く示唆している」フランシス・コリンズ 「ゲノムと聖書」P75

ビッグバンの証拠となった宇宙背景放射を発見してノーベル物理学賞を受賞した天文学者アーノ・ペンジアスも、神を信じるクリスチャンである。

宇宙は知的生命が存在するために最適に調整されている

自然界の物理定数が今とわずかでも異なれば、人間も太陽も原子すら生成されなかったと考えられている。ビッグバン直後のエネルギーのバランスが数%違っていたら、水素だけであったり、水素が全く無い宇宙になっていた。生命のためには、水素、炭素、酸素などの様々な元素が必要である。

電子と陽子の数のバランスが少しでも違ったら、電磁力が重力に勝り、星が形成されず、生命も存在できない。電子と陽子のバランスは10の37乗分の1の確率であり、同じように微調整されている物理特性は77個ある。宇宙が生まれてから「まだ」10の18乗秒しか経っていないにもかかわらず。

「宇宙は意志と目的をもって創造され、この信念は科学的な営みによって妨げられることはない」
ハーバード大学 天文学者 オーウェン・ギンガリッチ (「神の宇宙」の著者)

 しかし「宇宙の微調整」があり得ないことだから、「これは神の超自然的な介入だ」、というべきではない。「宇宙の微調整」の理由がいつか科学的に解明されるかもしれない。2012年にその存在が確認されたヒッグス粒子は、それを解明する手掛かりになるという。現時点ではまだ結論は出ていないが、それもまた神の知恵の偉大さを教えてくれるだろう。そういう意味では生物進化のメカニズムも同様に神の計り知れない知恵の産物かもしれない。

 「神が立てた法則の素晴らしい仕組みを正しく評価することは、神への礼拝として喜ばしく受け入れられるものであることは確かであろう」(コペルニクス)

 科学があらゆるものを解明したとしても、それは人間が作り上げたものではなく、ただそこに存在するものを説明したにすぎない。
 超自然的なものでなく、自然の中にそのような驚異的な秩序が存在すること事態が神を示唆しないだろうか。

 「我々の理解可能性こそが説明を必要とする」(A.E マクグラス)

 私たち人間が、その知恵や抽象的な数学を用いて、宇宙の謎を解明し、理解できること、それ事態が驚異であるとマクグラスは言う。


神が存在しないならば、客観的、道徳的な価値と義務が存在しない

殺人、盗みが何故悪なのか、人に親切にすることは何故善なのか、動物には、この基準は無い。
殺人を善とする文化、法律はどこにもない。他者を犠牲にして得る幸福も認められていない。

道徳が進化の途上で形成されたものだとすれば、自分が生き残るために弱い者を殺すことが認められないのはなぜか、自分を犠牲にして他者を助けるのは賞賛されるのはなぜなのか。

ダーウインは晩年の著書「人間の由来」で、道徳、倫理の形成を進化論から解き明かそうとしている。今日でも多くの進化論者がこの問題を議論しているが、彼らは動物と人間に本質的違いは無いという前提から出発している。しかし道徳は文化的、社会的、宗教的背景を抜きにして論じることはできない。

 カトリック教徒であり進化生物学者のフランシスコ・J・アヤラは、「道徳的規範」は、生物学的プロセスによるのではなく、宗教的、社会的伝統を含む、「文化的進化」の産物であると主張している。

ドフトエスキーはその作品の中で「神が存在しないならば、すべてのことが許されてしまう」という問題提起をしている。神がいなければ「悪」という概念も存在しない。無神論共産主義が、どれほど残虐な行為を正当化したか、歴史が証明している。人間の善悪、正、不正の概念が進化の過程で得たものであるとは、あまりにも単純過ぎないだろうか。

誰一人完全に守れない道徳が私たちの中に存在することも、絶対的な基準である神が存在することを示唆していないだろうか。

キリストの復活

“その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。”(使徒15:6)

このパウロの証言は、パウロの回心後4~6年後に書かれたと推定されている。したがってこれが嘘であれば、キリスト教に反対するユダヤ人たちが容易にこれに反駁できる証拠を見つけるだろう。

彼らが自らが望むことを幻覚で見たという反論がなされることも多い。しかし何百人もの人々が同じ幻覚を見ることはない。

しかもパウロは迫害者であって、復活を期待などしていなかった。

命を捨てた弟子たち

ほとんどの弟子たちは迫害され、殉教した。誰が嘘のために死ぬだろうか。イエスの死体を隠して益を得るのは弟子たちだが、もしそうなら、嘘だと知っていながら命がけで宣教するだろうか。

困惑の原理

作り話の場合には、都合の悪いことは隠される。
当時、女性の証言は信用されなかった。しかし復活の最初の証人は女性である。

4つの福音書には一見矛盾とも思える食い違いがある。この食い違いはむしろ信ぴょう性を高める。
もしある事実の目撃者を数人呼び出し、個別に証言を聞き取ったなら、詳細までまったく一致することはありえない。もし一致した場合は口裏を合わせたと疑われるだろう。

聖書をどう読むか

聖書の歴史的信憑性、内的一貫性は確かである。そしてイエスという偉大な人物が自らを神の子、救い主としたのは、妄想か、詐欺か、真実かのいずれかである。様々観点から検証、判断して、私はイエスという人物は神の子であると認める。そしてその救い主による人類の救済に至る壮大な神の計画を、聖書(創世記冒頭の創造物語を含めて)が我々に示していると信じる。

創世記の創造物語は、そのような視点で読むのが正しい読み方であり、生物学を議論するためでないのである。

終わりに

 進化論と創造論について長々と書き連ねてきたが、ある人にとっては自明のことで「何をいまさら」という感想も聞こえてきそうである。
 しかし人が一度確信した信念を、そう簡単に変えることは難しい。特に若いときに確信したものであったり、人生を大きく変えた信念である場合尚更である。すでに認知バイアスもかかっているだろうから、何でも都合の良いように、すなわち自分の信念を変えないように、今までの自分の生き方を否定しない方向に解釈しがちである。特に信仰に関わる事柄を軌道修正するのは難しい。人間は変わることを望まない。
 それ故にこの記事をまとめるために、多くの書物を読み、思索し、迷いながら数年を費やしたのは当然であろう。
 この稚拙な記事が、同じような疑問に悩む方々の参考になれば幸いである。




参考・引用文献

リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳「神は妄想である―宗教との決別」早川書房、2007年
A・E・マクグラス、J・C・マクグラス著、杉岡良彦訳「神は妄想か?」教文館 2012年
フランシス・コリンズ著、中村昇、中村佐知訳「ゲノムと聖書」NTT出版 2008年
A・E・マクグラス著、稲垣久和、倉沢正則、小林高徳訳「科学と宗教」教文館 2009年
ジョン・ポーキングホーン著、小野寺一清訳「科学者は神を信じられるか」講談社 2007年
ジョン・ポーキングホーン著、小林徹郎、松本武三訳「世界・科学・信仰」みすず書房 1987年
山中伸弥、益川敏英著、「大発見の思考法」文春新書 2012年
チャールズ・ダーウイン著、渡辺政隆訳「種の起源」(上下)光文社 2010年
フランシスコ・J・アヤラ著、藤井清久訳「キリスト教は進化論と共存できるか」教文館 2008年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙の起源」つくばクリスチャンセンター 1997年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙創造と時間」いのちのことば社 1999年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「創世記の謎を解く」いのちのことば社 2000年
デレク・キドナー著、遠藤嘉信、鈴木英昭訳「創世記・ティンデル聖書注解」いのちのことば社 2014年
内井惣七著、「ダーウインの思想―人間と動物のあいだ」岩波新書2009年
スティーブン・ジェイ・グルード著、「神と科学は共存できるか」日経BP社 2007年
バーナード・ラム著 「聖書解釈学概論」 聖書図書刊行会1978年

スポンサーサイト

進化論と聖書信仰は両立できるか 3

2.進化論(科学)と信仰の両立

 結果的にドーキンスら無神論者の主張に対してもっとも論理的かつ明確に反論していたのは、なんと「進化論を認める」クリスチャン科学者や神学者であった。例えば、A・Eマクグラス、彼はドーキンスと同じオックスフォード大学で、分子生物学と歴史神学の博士号を授与された神学者である。著書に「神は妄想か」(教文館)「科学と宗教」(教文館)など。また、フランシス・コリンズは国際ヒトゲノム計画のリーダーを勤めた遺伝学者である。 彼らはドーキンスの無神論と、反進化論の創造論の双方に対して批判し、科学と信仰が矛盾しないことを明らかにしている。
 正直に言えば、私は「進化論を認めるクリスチャンなどは本物のクリスチャンではない」とかつては思っていたのである。なんと傲慢なことか。

 最近、教会の説教の中では進化論について語られることはほとんど無い。若い頃の行っていた教会が特殊だったせいもあるが、それにしても、福音派でも若い牧師ほど反進化論傾向が無くなっているようだ。

福音派も進化論を受け入れる?

 日本基督教団をはじめとする所謂リベラル派の教会においては、聖書は神話であると考える人々もおり、少なくとも進化論は科学的事実として受け入れているようである。しかし創造論者の多い福音派の出版物の中に驚くべき記述を見つけた。
 日本の福音派で現在人気があり、多くの牧師が参照していると思われる「ティンデル聖書注解」の日本語訳は福音派の「いのちのことば社」から出版されている。
 その第1巻「創世記」の中に驚くべき記述を見つけた。著者のデレク・キドナーの個人的見解としながらも、神が進化のプロセスを用いた可能性を示唆しているのだ。

 その中で彼は人類の起源を考察した箇所でこう述べている。

「創世記の本文も決して否定し去ってはいないように、もし、神が初めに進化の過程を用いて人を形造ったとするならば、」(P30)

と、創世記は進化を否定していないという。また創世記1章の「地は..生ぜよ」(注1)という表現について、

「もし、こうした言葉遣いが進化による創造という仮説に良く合致しているように思われても(本書の筆者はそう考えているが)、この仮説だけが、この言葉遣いから導きだされる唯一の体系ということではない。」(P62)

と控えめながら、個人的には進化による創造という仮説を支持すると述べている。福音派の聖書注解で、このような記述に出会ったのは初めてである。

 デレク・キドナーの言うように、神が生物に限って「地は..生ぜよ」と命じた記述が進化論を暗示しているのかもしれない。神が命じてから「そのようになった」というまでに、長い時間かけて進化したと考えられなくもない。神には時間の制約が無いのだから、命じたことがすぐに実行されるというのは人間の思い込みである。

(注1)神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。(創世記1:24 新共同訳)


創世記のテーマは何か

 聖書は(旧約、新約を含めて)ひとつのテーマに貫かれている。それは神による人類の救いである。そしてそのはじめである創世記は、救いの計画のためにユダヤ民族が選ばれるというテーマがある。

 ユダヤ民族の父祖アブラハムが神に選ばれるは創世記の12章であり、その前の1章から11章はプロローグである。すなわち、どのように人類は堕落したのか、そもそも人間とは何なのかということが簡潔に記されている。1章で神が造られた世界は完璧だったことが強調され、2章では人間がその世界を管理する神のパートナーとして祝福されている。しかし3章に入ると、人は神に反逆を始め、堕落が始まる。

 これが創世記の伝えるメッセージであり、地球や生物の成り立ちを教える書物ではない。まして古代の人々に天文学や生物学のことを書いても仕方が無い。「神が造られた、そしてそれは完璧だった」で十分なのである。そのような書物を進化論や宇宙物理学に照らして解析する必要はないだろう。

 宇宙に始まりがあったということは、ビックバン理論と矛盾しないし、創造の順序も科学的事実と合っている。「地は..生ぜよ」という表現は進化論を暗示しているかもしれない。今まで述べてきたように進化論と創世記は矛盾しない解釈も可能である。
 しかし科学というものは新しい発見によって覆されることもあるので、断定すべきではないし、前述のように聖書、創世記のテーマから逸脱するような読み込みには慎重になるべきであろう。科学的事実にも謙虚に耳を傾け、独断的解釈を慎むべきだろう。
 神を信じる理由は他にもたくさんあるのだから。

バーナード・ラムの「聖書解釈学概論」でこう述べている。
 「聖書解釈と科学とは、ともに発展し、進歩してゆくものである。・・科学なしに創世記1章の科学的要素を解釈することは不可能である。」(p275)


偶然について

 創造論者が「私たちは意味も目的もなく、偶然に産まれたのではない」と言うと、感情的には動かされるものがある。確かに私たちが単なる偶然でこの世に存在するというならば人生は無意味に思える。神が目的をもって私たちを造られたというメッセージは生きる勇気を与えてくれる。
 一方、進化論者は「このような偶然の積み重ねでここまで進化した人間には、それだけ価値がある」と言うが、それは個人に希望を与えるものではない。

 しかし考えれば、私たちは多くの偶然に支配されている。そもそも数千万の精子の中から「偶然」卵子と結合した1つの精子により私は産まれた。人生の様々な岐路にも偶然が作用している。しかし、神にとって偶然は無い。神は偶然に左右されたりはしない。したがって進化が偶然に起こったことと、神が私たちを目的をもって造られたということは次元の異なる問題である。

 進化論については「偶然」の積み重ねで高等生物ができるのは確率論的に不可能だという主張がある。しかしダーウインが述べるように、進化は偶然のみではなく、それを保持する必然、すなわち自然淘汰によるものだ。遺伝子の突然変異という偶然が、生存に有利であれば、子孫に遺伝し保持されていく。DNAが発見されてこのメカニズムはより明確になった。

 ケンブリッジ大学の理論物理学者であり神学者であるJ・ポーキングホーンは、新しいものを生み出すには、偶然が必要であり、宇宙や生物の進化は、偶然と自然法則に従う必然の双方が必要だと述べ、偶然は神が与えた自由の徴だと言う。(「科学者は神を信じられるか」P65−71)神は世界を決定論的に造ったのではなく、偶然に任せたと言える。

 偶然という言葉を無神論的にとらえる必要はない。


エントロピーの法則

 創造論者が良く使うのがエントロピーの法則(熱力学の第二法則)である。熱は必ず冷める、秩序あるものは必ず無秩序の方向に向かう、逆はあり得ない、だから進化はあり得ないという。

 しかし、これは外部からエネルギーの供給が無い閉じた系内での法則である。地球には絶えず太陽からエネルギーが注がれている。そのエネルギーにより、海水は蒸気となって上に昇り(これは明らかにエントロピーの法則に反している!?)やがて雨になる。植物は成長し、子供は背が伸びる。(これもエントロピーの法則に反している!?)

 この太陽からのエネルギーにより生命は産まれ、成長し生きていける。進化のエネルギーにも十分なり得る。そして閉じた系で働くエントロピーの法則も生命には欠かせない法則である。

進化論は科学ではない?

 「進化論は科学ではない」とも言われる。科学とは繰り返し実験で検証できねばならないので、再現できない進化は科学ではないという。
 しかし一方でダーウィンは進化論を科学にしたとも言われる。彼の方法は「仮説演繹法」と呼ばれる科学的手法である。これはある仮説を立て、それが真実であればこうであるはずだと予測される現象を証明することで、その仮説を証明する方法である。
言い換えれば、具体的な現象をより正しく合理的に説明できる仮説がより良い仮説であるということになる。進化論という仮説は、現存する生物の多様性をうまく説明できるとダーウィンは考えた。そしてそれは、神が個別に生物を創造したという仮説よりも優れているとしたのである。

 また「進化論は事実ではなく単なる仮説だ」という主張もあるが、再現できないことに関しては仮説しかありえないのである。過去の事実は証明できない。したがって仮説か事実かではなく、どの仮説がもっともよい仮説かということしか科学は言えないのである。自然科学においては「理論」は究極的にはすべて仮説であるということもできる。ただし「検証された仮説」である。創造論者が言う「進化論は事実ではなく仮説である」というのは、その意味では正しいのだが、進化論には何の打撃も与えないスローガンである。

 前にも引用した山中教授と益川教授の対談(「大発見」の思考法 文春新書)の中で、両者が「進化論は証明されていないので、これを信じるのもある意味怖い」という発言をしている。確かに物理学と違って進化は実験で再現できない。従って物理学者に言わせると証明されていないことになるのだろう。しかし進化論は、前述のように科学的な手法で証明することも可能ではないだろうか。ゲノム解析では、ヒトと猿が同じ祖先を持つことを証明した。

 物理学の証明の定義から言えば、進化論も聖書も証明できない事柄なのかもしれない。物理学のように観測と数学によって答えが出せない点では同じだ。しかしそれだけが科学的合理的証明方法ではない。進化論は前述のように「仮説演繹法」という方法があるし、聖書の場合は歴史的検証法や文献批評等のきちんとした科学的検証法が存在する。益川教授やドーキンスが主張するような「自然科学だけが真理を探究する唯一の方法」ということはない。

 この点において創造論は、科学的には検証されていない不確かな仮説なのである。要するに、創造論は科学の問題ではなく信仰の問題であり、聖書の特定の解釈から科学を論じようとする間違ったアプローチである。

 ダーウィンも神の存在などを議論している訳ではない。進化論と聖書、信仰は対立するものと考える必要はない。

「生存競争」?

 進化論について、強いものが生き残るとか、生存競争、適者生存とかいうことばが使われることがある。これらの言葉から優勢主義、人種差別、障害者蔑視などが連想され、心理的に進化論を嫌悪する要因になっている。実際、そのように進化論を悪用した例もある。

 しかし本質的にこれらの概念は進化論には無い。
「種の起源」の第4版までは、「適者生存」という言葉は使われていなかった。これは社会進化論の提唱者である哲学者のハーバート・スペンサーが1864年に発案した造語である。
この考え方を知ったダーウィンは「種の起源」の第5版の第4章「自然淘汰」を「自然淘汰、または適者生存」とした。

ウキペディアには以下のようにある。

一般的に言って、「適者生存」における「適者」とは、この造語の発明者であるスペンサーにおいては個体の生存闘争の結果であるのに対し、ダーウィンの自然選択説では個体それぞれに生まれつき定められている適応力に重点が置かれる。これは、進歩的社会思想と進化論を同一次元で考えたスペンサーが進化の原動力を個人の意識的な努力に求めたがったのに対し、ダーウィンの自然選択説は本質的に決定論的であり、個体それぞれの生存闘争は確率論的な地平に取り込まれるべき理論であることを意味する。

「子孫を残そう」とか、「同じ遺伝子を増やそう」とか、「生き残ろう」とか、「生存競争を勝ち抜く」とか、そんな意志は生物にはない。遺伝子レベルになればなおさらだ。

結果として子孫を多く残したり、利他行動で同じ遺伝子を持つものを助けることができた生物の有利な特徴が遺伝して、結果として生き残ったということではないだろうか。
そこには意志も、目的も、方向性も無い。偶然の積み重ねしかない。
進化論者は、往々にしてこのように進化に方向性や意思があるような表現をすることがあるが、誤解を招くのではないかと思う。

また一般に「強いものが生き残る」という誤解があるが、正しくは「適応したものが生き残る」のである。

生物の不完全性と残虐性

 神が直接生物を造ったのであれば、それほど完全ではない生物の機能について説明ができない。
 人間の眼には構造上の制約により盲点が存在する。しかしイカやタコには盲点は無い。この点ではイカやタコのほうが優れている。
 生物同士の残虐な行為も神が直接造られたとしたら納得がいかない。創造論者はそれを人間の罪の結果とするが、人間の罪によって一度造られた自然界の仕組みが大きく変わってしまうことは考えにくい。

 有限で不完全なこの世界は神の設計の不完全さではなく、自然選択の結果であると考えることができる。

進化論と聖書信仰は両立できるか 2

1.進化論と創造論をめぐる主な立場

 進化論と創造論をめぐっては、主に以下のような立場に分類される。

1 無神論的進化論
 進化論は科学的事実であり、人間も進化したもので、神が創造したものではない。従って神は存在しない。

2 若い地球の創造論(いわゆる創造科学)
 創世記1章の「1日」を文字通り24時間と解釈し、神は7日間で宇宙を創造したとする。
また聖書の系図をそのまま計算して人類の歴史は6000年から1万年程度と考え、宇宙の年齢も1万年とする。
 つまり科学的事実をまっこうから否定する。
 ヘンリー・モリスによって設立されたCRS(クリエーション・リサーチ)が有名。日本支部はCRJ(クリエーション・リサーチ・ジャパン)。
 また、聖書や神については全く触れずに、「知的デザイナー」の存在を主張する「インテリジェント・デザイン論(ID論)」という主張もあるが、創造論に科学的な装いをしただけである。
米国ではDiscovery Instituteという団体がある。日本では創造デザイン学会という団体があるが、これは統一教会系の団体である。

3 古い地球の創造論(進化論には懐疑的)
 創世記1章の1日は24時間ではなく「時代」と考え、宇宙の年齢や地球の年齢の科学的事実は、聖書と矛盾しないとし、「創造科学」に批判的。むしろ科学的事実が神の存在と創造を証明すると考える。進化論については懐疑的である。
 天文学者ヒュー・ロスが多くの本を出版している。邦訳もあり。

4 有神論的進化論
 科学と聖書は共に真理であると主張。3と近いが、神が進化のプロセスを用いたとする。もしくは、その可能性を否定しない。
 遺伝学者で国際ヒトゲノム計画のリーダーであったフランシス・コリンズや、進化生物学者のフランシスコ・J・アヤラ、オックスフォード大学の分子生物学者で神学者のアリスター・E・マクグラスなどの書籍が邦訳出版されている。

5 聖書と科学は異なる領域とする
 聖書はあくまでも宗教的な書物であり、科学的事実とは関係ない。
 創世記の創造物語は事実ではなく、宗教的真理を述べているもの。

 ドーキンスらの無神論者が辛辣に批判するのは、2の「若い地球の創造論者」のグループとID論であり、3、4のグループは、ドーキンスの宗教についての無知と偏見を批判すると共に、1のグループの科学を無視する考えをも同時に批判している、というのが現在の状況である。

 ここで「創造論」という言葉について注意すべきことに触れておこう。聖書では神が宇宙、生物すべてを創造した、と述べている。この点については、ほとんどのクリスチャン、キリスト教派で異論はない。しかし「創造」がイコール「反進化論」ではない。今述べてように、進化を用いて創造したと考える人々もいるのである。クリスチャンはある意味で皆「創造論者」であるが、皆が「反進化論者」ではない。

 これ以降は、特に断りの無い限り、「若い地球の創造論」をはじめとする「反進化論」を「創造論」と呼ぶことにする。

ダーウインと「種の起源」

 そもそも進化論を提唱したダーウィンの「種の起源」は、150年前に書かれたにもかかわらず、非常に優れた書物である。学術書ではなく一般向けに書かれたもので、日本語でも最近の翻訳で読めばわかりやすい。
 生物学に疎い私には多少難しいところもあるが、そんな私でもダーウィンの科学的に誠実な姿勢には感銘する。彼は詳細な実験と観察の結果から、自説を丁寧に説明しつつ、自説の難題、弱点についてひとつずつ厳密に検証している。特に化石の少なさと中間種が見受からないこと、そして目の様な複雑な器官が自然淘汰だけで出来上がったということが、多くの人に受け入れ難いという事実に正直に向き合っている。
 まだ遺伝子も見つかっていない頃だったが、いまやゲノムの研究によりダーウィンの説が証明されようとは、なんという先見の明であろう。
 
 進化論が発表された当時もある人々が反発したように、神を否定すると考えられた。人間が、偶然と自然淘汰により下等動物から進化したならば、聖書は神話であり、神による創造の否定、ひいては神の存在の否定と受け取られた。

 ダーウィンが主張したのは、神が生物を種毎に創造したとする、特殊創造説(もしくは個別創造説)では、観察される生物の多様性や特徴を説明できず、変異と淘汰による説明が最もよく説明できるということある。

それでは、この特殊創造説、個別創造説とは何か?

 それは創世記1章、2章の字義的解釈を科学的真理とみなすひとつの聖書解釈から生まれた。
創世記には、神が命じることで植物、動物、魚、鳥などが造られた、そして最後に人間を造られたと書いてある。これを字義通りに解釈すれば、神がそれぞれを個別に神が造った、つまり鳥は最初から鳥、猿は最初から猿、人は最初から人の形に造ったと解釈できる。特に人は神に似せて造られた、すなわち他の動物とは違うのだ。

これが個別創造説であり、ダーウィンはこれでは生物界を科学的に正しく説明できないと主張したのである。
 ダーウィンは「種の起源」の中で、進化論のほうが「造物主(原文はcreater)が物質に課した法則に関するわれわれの知識とうまく一致する」(チャールズ・ダーウイン著、渡辺政隆訳「種の起源」光文社 2010年 下巻P401)と述べている。彼は神の存在を問題にしているのではなく、ただ進化論のほうが、合理的、科学的であると言ったのである。

 しかし、この自然淘汰による進化は、「創造主」すなわち神の直接的関与無くして生物が生まれたことを意味するため、「創世記1章の字義的解釈」と矛盾すると考えた一部のクリスチャンは、すぐさま進化論と信仰は相いれないと考えたのである。
また無神論者も同様に、進化論が信仰と相いれないことから、信仰への攻撃に進化論を利用した。

この「創世記1章の字義的解釈」というのが後に重要なポイントになるので覚えておいて頂きたい。


無神論的進化論

 無神論に立つ人々は、進化は目的もデザインも無い自然現象として説明できるので、神を持ち出す必要な無いと考える。そして神を持ち出す人々は「隙間の神(ギャップの神)誤り」に陥っているとする。「隙間の神誤り」とは、わからないことはすべて神の業として片付けてしまうことを言う。科学が進歩して分からなかったことが分かるようになると、神の居場所は無くなってしまうという訳だ。
 今は分からないこともいつかは科学が明らかにする。説明に神は不要で、世界の真理を明らかにするのは科学のみだと考える。創造論者、特にID論者は「隙間の神誤り」に陥っていると批判される。

 これは確かにそう通りである。科学的探求に神を持ち出しては何の意味も無い。科学とはそういうものだ。しかし、科学の説明に神を持ち出さないことと神の存在とは別であることに注意して欲しい。神は「分からないこと」を説明するだけの神では無い。この驚異的な宇宙を作り、物理法則を作られたのは神であり、すでに科学で解明されていることについても、神の存在とその知恵と力を認めるには十分である。すべての自然現象が科学によって説明されたとしても、その法則を作られ、保持されているのは神であるというのがキリスト教信仰であり、「科学によってすべて説明できれば神は必要ない」ということではない。

 フランシス・コリンズは「隙間の神」批判に対してこう述べる。

「神を信じる良い理由は他にいくつもある。美しい数学的原則の存在や創造における秩序などもその一つだ。..知識の欠如を何でも神の業に帰するのとは違う。」(ゲノムと聖書 P91)

つまり、人間の知恵により解明された科学的事実が、むしろ神の存在を裏付けているのだ。

 ドーキンスなどの無神論者が神を否定するのは、純粋に科学的結論でなく別の理由もある。特にドーキンスの場合は過度な宗教への偏見が見られる。 彼は著書の中で、宗教の行ってきた悪や一部の人々の非科学的思考などを批判しているが、無神論共産主義がどれほど非道な残虐行為を行ったかということには一切触れない。また彼は「真の科学者は無神論者でなければならない」という強固な信念を持っている。
アリスター・マクグラスは、神を信じる科学者が40%いるというデータを挙げ、「自然は無神論的にも、有神論的にも解釈可能である。」と述べ、「無神論という前提は科学に基づいているというよりも、無神論者である科学者が科学へと無神論を持ち込む」と指摘する。(「神は妄想か」P55)

全米科学アカデミーのHPでは、「科学と宗教の互換性」と題して、科学が知識の唯一の方法ではないこと、宗教と科学は異なる役割を持つことを主張している。

若い地球の創造論(いわゆる創造科学)

 「若い地球の創造論者」(ヤング・アース派とも呼ばれる)は、私の若い頃日本の福音派の中でも活発に活動していた。前に述べたように、聖書を信じること=進化論を否定することであり、信仰告白は創造論信仰=反進化論信仰を含むものであった。
 確かに生命の複雑さ、精密さを知れば、それが偶然に生じたと信じるのは感覚的に難しい。それは神の知恵によるものであり、進化論は聖書に反する=神を否定するものだ、と教えられれば納得させられてしまう。しかし感覚的に信じられないことと事実は違うことが多い。地球が丸いということを知らなければ、我々がものすごい速さで(赤道直下で時速1600km)自転する球の上に乗っているだなんて信じられないだろう。動いているときには時間の進行が遅くなる、なんて相対性理論が証明されなければSFの話でしかない。あり得ないようなことも科学が証明してきた。
 一方でクリスチャンは、イエスの奇跡や復活など、それこそあり得ない話を信じている。もしそれらのあり得ない話を信じる合理的な根拠があるならば、進化のあり得なさを信じる合理的根拠にも目を留めるべきである。しかし彼らはこのような公平な立場を取ることなく、創世記と進化論が一致しないならば、進化論が間違っているという前提に立っているからだ。

 創世記がなぜ進化論と一致しないと考えられるのか。それは創世記では天地創造が6日間でなされ、長い期間の進化ではなく、一瞬で神がそれぞれの種を個別に創造したと解釈されたからだ。

 それは創世記の記述を字義通りに解釈した場合である。字義通りに解釈するようになったのは、わずか100年程前からであり、アウグスチヌスをはじめ古代から保守的なクリスチャンでも文字通りの解釈はしていなかった。6日間の創造の「日」ということばは、ヘブライ語では「時代」等の長い期間をも意味していることは昔から知られていた。この「日」が24時間でなく、数億年、数十億年の期間を意味するなら、地球の年齢を46億年とする科学的事実と矛盾しない。
 また彼らの字義的聖書解釈では、天地創造は6000年前であるという(これは聖書中の人物の系図にある年齢を合計した数値らしい)。宇宙の年齢は130億年とする近年の科学的事実と明らかに矛盾する。考古学においても、数万年前の文明が発見されている。
 そこで彼らは、「見かけ上の年齢」という奇妙な考えを編み出す。神は宇宙を130億歳の状態で造ったというのである。何十億年かけて宇宙の果てから地球に向かっている光は、その瞬間の状態で創造されたというのだろうか。

 日本の福音派の中でも有名な学生伝道団体の責任者が、この主張に疑問を持ち創造論から身を引いたといい、思っていた以上に「創造論」はキリスト教界においても劣勢になりつつあるのではないか。 科学的思考を身に着けたクリスチャンほど創造論から距離を置いていくだろう。最悪の場合は信仰をそのものを疑問視してしまうことも有りうる。

 「神は何でもできる」と言ってしまえばそれでおしまいだが、神がそんなことをして「偽の宇宙」を造る理由は全くわからない。最近では「ホワートホール説」というものを持ち出してきて、地球と宇宙の端では時間の流れが違う、というようなことも言い出している。そこまでして科学的理論を否定して自分たちの聖書解釈に固守する必要はどこにあるのか。むしろ、ほんとうに聖書は天地創造を6000年前と言っているのか、あるいはそれが聖書が我々に伝える重要なメッセージなのかと、どうして問い直さないのだろうか。

 IPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授とノーベル物理学賞を受賞した益川教授の対談(「大発見」の思考法 文春新書)の中で、山中教授が、「生物学をやっていると、これは神様しかできない、と思うことがたくさんある」という発言に挑戦するように、益川教授が「僕は積極的無宗教」だと言い、「どの宗教も入信させるのに嘘を言ってもいいことになっている」というあきれた発言をしている。嘘の一例として、「聖書には人間の歴史は6000年と書いてある」というのである。もちろん聖書にはそんなことは書いてない。ノーベル賞科学者であっても、聖書を読まずに創造論者の主張を鵜呑みにして誤った認識を持ってしまうのである。  
 

古い地球の創造論(進化論には懐疑的)

 創世記を文字通りに解釈はしないが、やはり進化はありえないと考える人たちもいる。
 つまり創世記の1日は24時間ではなく、宇宙は130億年前に生まれ、地球は46億年前に生まれたという科学的事実を受け入れる。天文学者ヒュー・ロスは、創世記を正しく解釈すれば、科学と創世記は一致しているという。もし、聖書と科学に食い違いがあるならば、人間の解釈が間違っているのであり、さらに研究を進める必要があると受け止めるべきである、と指摘する。(「宇宙創造と時間」)ヒュー・ロスは、宇宙が生命が生まれるためにいかに精密に微調整されているかを論じ、神の存在を論証するが、進化については、やはり時間が足りないと結論する。しかし神が進化のプロセスに関与したと考えるならば、進化論を認める立場と結局は同じになるかもしれない。(ただしその関与の仕方が、科学的に立証される必要があるが。)

 またある人々は、進化について論じなくても宇宙論や道徳論で神は証明できると考え、あえて進化論には踏み込まない。つまり彼らは進化論とは別の方法で神の存在を弁証しようとしているのである。
 確かにダーウィンやドーキンスが言うように長い時間を掛けて坂を上るようにゆっくりと自然淘汰が蓄積されていくには時間が足りないという異論もある。化石からわかるのは5億年前のカンブリア紀に突然生物が大量に出現していることで、ドーキンスと並ぶ生物学者のグールドは、「断続平衡説」を唱えた。人間のようなカメラ型の眼がどのように進化したか、まだ謎が多い。
 だからと言って生物学者たちの地道な努力を一笑に付すことは愚かだろう。私は個人的にはDNAにすべての謎を解く鍵が隠されているのではないかと思う。

有神論的進化論

 カトリック教会やリベラル派の教会、そして最近は一部のプロテスタント福音派においても、この立場をとる。それは科学的成果を尊重し、進化論を認めても、聖書の創世記の神の創造とは矛盾しないと考える。

 ガリレオは「我々に感性や理性、知性を与えた神が、それらを放棄することを望まれるとは思わない」と言うことばを残している。ガリレオも、当時の誤った聖書解釈と戦ったのであり、科学も信仰も捨てなかったのである。

 クリスチャンでゲノム研究の第一人者である、フランシス・コリンズは、「ゲノム研究の成果は、進化論に分子レベルでの裏付けを与えた」と言っている(「ゲノムと聖書」P135)。しかし同時に「DNAの暗号としての美しさは何と味わい深いものであろうか!・・神を信じる者にとって、ますます畏怖を覚えることはあっても、失望することはないのである。」(同書 P103)と述べる。
 もちろん彼は、聖書を神のことばと信じている。そして自身の信仰と科学に対する考えを「バイオロゴス」と名付け、バイオロゴス財団(http://biologos.org/)を通して広めている。

これが科学的真理と宗教的真理を正しく扱う態度かもしれない。

 聖書の独断的解釈を保留し、創造に数十億年の時間を許すならば、神が進化のプロセスを自然の中に造られたとしても不思議はないのである。
 私たちは一粒の種が地に落ちて、やがて芽を出し、きれいな花を咲かせるのを見る。これ自体驚くべきことであるが、これは自然のプロセスであり、奇跡でも超自然でもない。この自然のプロセスを造られたのが神であると認めるならば、進化のプロセスを神が造られたと認めることも可能なのではないか。

「他のプロテスタント神学者は、神が中間的原因を通じて働くという論証のなかに、進化と創造との間に存在する、表面的矛盾の解決を見た。惑星の起源や運動は神の創造や摂理を否定しないで、重力の法則や他の自然的プロセスによって説明できる。同様に進化は、それを通じて神が生き物を存在させ、自らの計画に従ってそれらを発展させた、自然的プロセスとして理解することができる。」
(フランシスコ・J・アヤラ 「キリスト教は進化論と共存できるか?」P130)

進化のプロセスが偶然であるならば、私たち人間の存在も偶然の産物なのかと思うかもしれないが、神にとって偶然は存在しない。(進化論も偶然だけで進化するとは言っていないが)

 それでは、「人が神のかたちに造られた」という聖書の記述をどう考えるのか。人間が動物と変わらないなら、神が人間だけその善悪を裁くのはなぜか。神のかたちという意味は生物学的意味ではないことは明らかだ。それは精神、または霊という領域に関する事柄であり、人間の知性、宗教心、道徳などは体の進化とは関係なく、霊が与えられていることが動物と人間の大きな違いなのである。無神論者は、このような精神の働きも、脳の働きによるものとし、進化によって獲得したものとする。

進化論と聖書信仰は両立できるか 1

進化論と聖書信仰は両立できるか 1

「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、」(マタイ福音書6:30)

はじめに

 一輪の花の美しさに私は自然の素晴らしさを見る。しかも、それが小さな種や球根からいつの間にか芽を出し、やがて美しい花を咲かせる。この花のひとつも人間が作り出したものではない。私は自然の素晴らしさ、巧みさと、それを造られた神を賛美する。
 もちろん花が咲くのは奇跡でも超自然でも、マジックでも無い。科学が解明済みの自然の現象であり、ある意味当たり前の出来事でしかない。
 しかし「科学的に解明された」からと言って、「なんだ、そんなことだったのか」というマジックの種明かしをされたときのようながっかりした気分になる人はいない。いくら科学が解明したとしても、(いやむしろ解明されるほど)微生物から植物、動物に至まで、生命は驚くべき仕組みを持っていることに、そしてそれは人間が作り出したものではないことに、誰でも驚きを覚えるだろう。
 だからと言って、神が忙しく働いて常に奇跡を起こしているとは思わないし、妖精が見えないところで働いているとはもちろん思わない。あくまでも自然法則に従っているのだ。

 これら地球上の生物は、たった1個の細胞から、突然変異と自然淘汰により進化して、様々な種に枝分かれして進化してきたと考えられている。この「進化論」はある人々にとって、神が存在しない証拠とされている。特に神がすべてを創造したと書かれている聖書は神話だと証明されたと考える。

 果たして人間は自然の一部として進化した動物であって、神など存在しないのだろうか。聖書は単なる神話にすぎないのか。だとしたら聖書を神のことばと信じ、自らを神の子として全世界に多大な影響を与えたイエス・キリストは詐欺師か誇大妄想か、あるいは空想の人物なのか。
  
 リチャード・ドーキンスなどの無神論を標榜する科学者は、進化論のゆえに神は存在しない、宗教は盲目的で愚か、真の科学者は無神論である、と声高に主張する。ドーキンスの代表的な著書は「神は妄想である」、「盲目の時計職人」等多数邦訳出版されている。日本の科学者も、声高に主張はしないがそのような考えが大半であろう。

 一方で聖書を「誤りの無い神のことば」と信じる人々の一部は、生物は神が創造したのであって「進化論」は誤りで、聖書の創造論が科学的にも正しいことを証明しようとしている。「創造科学」や「インテリジェント・デザイン」の名で、特に米国で大きな運動になって久しい。ノンクリスチャンの間では、このような運動を見て、聖書は科学と相容れない神話、迷信であるという印象が根付いている。
 
 この対立構造が、アメリカで公教育における進化論と創造論の裁判沙汰などで注目され、聖書、キリスト教は非科学的である、という認識が日本でも行き渡っている。

 私が若い頃にはじめて行った教会は、聖書を極端に文字通り解釈し適応する教会で、ディスペンセーション主義、艱難前再臨説であった。したがって進化論は間違いであり、聖書に書いてあるとおりに最初から人間は人間として創造されたと教えられた。人を信仰に導くときのセオリーである「神・罪・救い」の最初の「神」の存在に関する説明として、まず福音のメッセージの最初に「創造論」が語られた。
 神は万物の創造者であり、私達は目的のなく偶然に発生して進化した動物ではない、と教えられ、感動したものだ。神は私たちをかけがえのない存在として目的を持って造られたという福音と共に、進化論は科学ではなく、神を否定する思想であると教えられた。進化論を否定することが福音を受け入れることと一体になっていたのである。
 当時、工学系の学校を卒業し、生物学には全く疎かった私は、創造科学の書籍によって、いかに生物が精巧な仕組みを持ち、それが偶然に進化することなどあり得ないと確信した。加えて、弱肉強食、優性主義、競争原理などの負のイメージが進化論を嫌悪させた。

 この問題は「科学対宗教」という側面で単純化されることが多いが、実際はもっと複雑である。
進化論を認める教会、教派、クリスチャンも数多い。また後に述べるように創造論者の多い福音派の中にも変化がみられる。また神を信じ、また進化論を指示する科学者も数多く存在する。

 次にこれらの様々な立場の主張を比較、検証していきたい。
sinka.png 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。