荒野の誘惑(試み)マタイ4章1-11節

聖書から
01 /29 2024
荒野の誘惑(試み)マタイ4章1-11節

「神の子なら」
 イエス様はヨハネの洗礼を受けたとき、天からの声で「神の子」としてあきらかにされました。悪魔は、「神の子、キリストなら、・・・したらどうだ」と誘惑します。神の子かどうかではなく、神の子はどうあるべきかが試されています。
(「・・・しなさい」、よりも新共同訳の、「したらどうか」と言う訳は誘惑をよく表していると思います。)

 誘惑とは、その人にとって決して不可能なことではなく、可能なことで、一見良く見える、魅力的なことに惑わすことです。(創世記3章のアダムとエバへの誘惑を思い起こしてみましょう)悪魔は神の子、キリストなら可能なことで、魅力的な提案をしてイエス様を誘惑します。

イエス様の対応
 イエス様は聖書のことばをもって誘惑を退けました。それによって神の子、キリストはどのようなお方が逆にあらわされています。また、イエス様が引用したのはすべて申命記で、イスラエルの民がエジプトの脱出した後、荒野での40年間の試みで失敗した箇所でした。

第1の誘惑 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 空腹なら神の子としての力を使ったらどうか、その力で人々の空腹を満たしてあげたらどうか。それが救い主なのではないか。そんな風に問いかけています。
 イエス様の答えは 「人はパンだけでなく、神のことばによって生きる」(申命記8:3)
 これはかつてイスラエルの民が空腹で神に不平を言ったとき、神様が教えたことでした。(出エ16:1-5)私たちに食物が必要なことは神様がご存じであり、神様が与えて下さるのです。私たちは神様に生かされているのです。そのことを抜きにしてただ「空腹を満たす」のが救い主ではありません。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

第2の誘惑 「神の子なら、ここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうだ。」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 悪魔は聖書に書かれていることを引用して(詩篇91篇11-12)、「神がこう言ってるのだから、それを人々の前で示したらどうか。そうすれば皆、お前がキリストだと証明されるだろう」と提案しました。
イエス様の答えは 「神である主を試してはならない」(申命記6:16)
 ここでも、イスラエルの民の失敗例があります。彼らは水を求めて、神がいるのか、いないのか試したのです。(出エ17:1-7)我々に求められているのは試すことではなく、信頼することです。イエス様は父なる神様を信頼していたので試す必要はありませんでした。悪魔が引用した詩篇91篇は神への深い信頼を表す詩です。聖書の一部を引用して誤った適用をすることにも注意しなければなりません。

第3の誘惑 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」
 これは、イエス様にとってどんな誘惑でしょうか。
 悪魔は一時的で部分的ではありますが、この世を支配しています。その悪魔が退いてイエス様がすぐにこの世界を支配されるようになるというのです。これは素晴らしいことではないでしょうか。素晴らしい世界、理想の世界がすぐに実現するかもしれません。ただし、神の子が悪魔を拝むという代償つきです。
イエス様の答え 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(申命記6:13)
 イスラエルの民も王も、たびたび偶像礼拝をしていました。神でないものを神とすることがどれほど愚かなことか、何度も何度も神様は教えてきました。そのような誤った方法で神の国は実現しないのです。イエス様はへりくだって人に仕え、人を愛し、十字架と復活を通して私たちの罪を贖い、人を生まれ変わらせ、そのようにして神の国は実現するのです。それが神のご計画です。

 神の子キリストは、奇跡で人を引き付けたり、その力で豊かな生活を与えたり、権力を握って人を従わせたりするために遣わされたのではありません。ひたすら神に信頼し、従い、人に仕え、へりくだり、十字架の道をも歩む「全き人」として生きられたのです。
 全き人として私たちに模範を示されると同時に、全き人であるからこそ、私たちの罪を背負って十字架にかかることのできるお方なのです。

 私たちも、このイエス様に従う道を歩もうとするとき、脇道に誘う声を聞くかもしれません。そのときに神の言葉をもって答えることができるよう、聖書を学び続けたいと思います。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
(ピリピ2:9-11)
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マタイ福音書3章 洗礼を受けるイエス

聖書から
01 /14 2024
マタイ3章

洗礼者(バプテスマの)ヨハネ(1-12)

 前回2章では、幼子イエスはナザレに住んだというところで終わっていましたが、3章ではそれから約30年経過しています。
最初の登場人物は洗礼者ヨハネ、あるいはバプテスマのヨハネと呼ばれる人で、キリストの到来に備えてその道を用意する人です。(使徒ヨハネとは別人です)

 彼のメッセージは、「悔い改めよ、天の御国が近づいた」 と記されていますが、これはイエスも(4:17)、弟子たちも(10:7)宣べ伝えた福音(よき知らせ)のメッセージです。「悔い改め」というのは、後悔して善い行いをするということではなくて、「向きを変える」あるいは「立ち返る」という意味です。神に従わず罪を犯していた生き方を改め、神のほうに向きを変える、神に立ち返るということです。「天の国」とは、神の王国、神のご支配という意味で、死んでから行くいわゆる「天国」ではありません。「近づいた」とは、もうすぐそこまで来ているという意味です。

 福音と言うと、私たちは「イエスが私の罪のために十字架にかかり、復活された。それを信じれば死んだ後天国に行ける」というように個人的なことに矮小化しがちです。しかしヨハネ、イエス、そして弟子たちが伝えたのは、「神様がもうすぐ王として世界を支配されるときが近づいている。だから神様に立ち返りなさい。」というメッセージであり、これが福音の本質です。イエスの十字架と復活は、これを実現するためのプロセスなのです。

 ヨハネは悔い改めのしるしとして、洗礼を授けました。しかし悔い改めることなく洗礼を受けようとする人々をヨハネは激しい言葉で叱責しました。悔い改めなしに(すなわち神に立ち返ることなしに)「ただ信じれば救われる(裁きを逃れられる)」というのは、日本人で言うなら「お守りを持っていれば大丈夫」というようなことでしょう。心からの悔い改めが必要です。

「悔い改めにふさわしい実」(8)とはどういうことでしょうか?

 しかし、自分の悔い改めは果たして十分なのかどうか、私たちは自分を拠り所とするとき不安になります。そこでヨハネは「後から来る方」は自分など足元にも及ばない方だとしてキリストを指し示します。キリストは水ではなく、「聖霊と火で洗礼を授ける」と言います。このことをイエスご自身も復活後におっしゃっています。(使徒1:5、そこでは「聖霊による洗礼」で「火」はありません。そのことは後に述べます)

「水によるバプテスマ」と「聖霊と火とのバプテスマ」とは、どう違うのでしょうか?

 「聖霊による洗礼」とは、これ以降聖書には一切登場しない言葉ですが、信じた者が聖霊(神の霊)を受けて新しく生まれかわるということを意味しています。 大切なことは、人の悔い改めと水による儀式よりも、聖霊により内側からきよめる真実の洗礼をキリストは授けるお方だと言うことです(ちなみにイエス様もパウロも水による、イエスの名によるバプテスマ(洗礼)も授けるように(受けるように)命じています。これは個人的なものではなく、教会=神の民のメンバーシップと関係しています。)

バプテスマを受けるイエス(13-17)

 ヨハネが驚いたように罪のないお方がなぜ洗礼を受けたのでしょう? 

 私たちはイエス様が人としての歩みをなされ、私たちの罪のために十字架で死なれたことを知っています。神の国が実現するためには、まず十字架と復活により、私たちの罪が贖われることが必要でした。それが神のご計画でした。しかしヨハネはキリストが来たらすぐに王として支配すると考えていたようです。ですから、裁きもすぐに行われると考えて、「火の洗礼」ということばを使ったのかもしれません。後に自分の期待と違うイエス様に疑いを抱きました。(マタイ11章)しかしイエス様は、「さばくためではなく、救うために私は来た」とおっしゃいます。(ヨハネ福音書3章17節)

 天からの声はイエス様について何を現わしているでしょうか?

 洗礼を受けるとすぐに聖霊がくだり、「これはわたしの愛する子」という天から声が聞こえました。イエス様は全き人として、また神に愛された神の子として証しされました。私たちも、神に立ち返り洗礼を受けたとき、聖霊がくだり、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれるようになったのです。ハレルヤ!
 
補足) 「聖霊と火とのバプテスマ」とは?
  イエス様は「聖霊よるバプテスマ」(使徒1:5、11:16)と言っており、「火」はありません
  これ以降、この言葉は聖書には現れません。解釈はいくつかあります
   ・水に対して「火のような聖霊」というたとえ(ペンテコステ炎のような舌?)
   ・聖霊は救われる人に、火は裁かれる人にくだる(10,12節の火も裁き)
   (ヨハネはキリストが来たら、救いと裁きがすぐに行われると考えていたかもしれません) 

 
 
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マタイ福音書2章 王の誕生

聖書から
01 /14 2024
王の誕生 マタイ福音書2章

博士たちの礼拝(1-12)

 遠くバビロンの地からやってきたと思われる博士たちは、当時ユダヤを支配していたヘロデ王がどんな人物か知らなかったのでしょう。ヘロデは自分の地位を守るために、妻や息子たちさえ殺害するような王でした。彼は「ユダヤ人の王、キリストが生まれた」と聞いても、自分の地位を脅かす邪魔者としか考えませんでした。

 一方、ヘロデから、「キリストはどこで生まれると預言されているのか」と聞かれた祭司長、律法学者たちはどうだったでしょう。彼らはその知識を用いて「ベツレヘムです」と答えるだけで、自ら探しにも行かず無関心なようです。異邦人である博士たちの言葉など信じなかったのでしょう。キリストが生まれたならまずユダヤ人の私たちに知らされるはずで、異邦人が先に知るなんてありえないと思ったでしょう。

 それに比べて博士たちは、キリストの誕生を喜び、贈り物を携えて長い旅をしてきました。そしてキリストを探し出して礼拝をしました。

 今日も人々はキリストの福音に様々な反応をします。最初から否定的な人、無関心な人、興味を抱く人など様々でしょう。
 あなたはキリストの話を初めて聞いたとき、どうでしたか。

エジプトへの避難(13-18)

 ヘロデから逃れるため、神はヨセフにエジプトに行くように命じます。ヘロデが死んだ後戻ってくるのですが、それがホセア書11章1節の預言の成就だと記されています。この箇所の本来の意味は、大昔ユダヤ民族がエジプトから救い出された出来事を述べているのですが、それがこのイエスのエジプトへの避難と帰還をも預言しているのです。
 そしてそれは単に出来事の追体験でなく、イエス・キリストというお方が新たな出エジプトを導くお方、罪の奴隷である私たちを解放されるお方であることを暗示していると解釈されています。

 キリストを見つけられなかったヘロデはベツレヘムの2歳以下のこどもを殺害するという暴挙を行います。それまたエレミヤ書31章15節の預言の成就だと記します。その本来の意味は600年ほど前の出来事で、ユダヤが滅ぼされ、大勢の人々がバビロニアに連れていかれる様子を嘆く箇所です。ラケルとは、ユダヤ人の父祖ヤコブの妻でイスラエル民族の母の象徴です。ここではバビロン捕囚のときの母親の嘆きと、ヘロデに子を殺された母の嘆きを重ねています。

 子どもたちが殺されることが預言されていたことだなんて、ちょっとひどいな神様、とおもうかもしれません。しかしそれは決して神の望みではありませんでした。なぜなら、この箇所では他の箇所のように「成就するため」ではなく、「成就した」と書かれており、決して神が望んでそうしたのではないことが表現されています。
 エレミヤ書のこの前後をお読みになるとわかりますが、エレミヤはその暗い現実の先に神の救いの希望があることを預言しています。おなじようにイエス・キリストは、この野蛮な王が支配する暗い現実に希望をもたらすお方としてマタイは描いているのではないでしょうか。

ナザレへの帰還(19-23)
 
 ヘロデ王の死後、ローマ帝国はユダヤを3分割して3人の息子に統治させました。エルサレムやベツレヘムを含むユダヤ地方はアルケラオという息子に任せられました。アルケラオは残忍で即位後三千人のユダヤ人を殺害しました。ヨセフは引き続きベツレヘムに住みたかったのでしょうが、そんな混乱した地に住むことを恐れました。神様の警告もあってガリラヤのナザレに住むことにしたようです。ルカの福音書によればもともとヨセフとマリヤはナザレに住んでいたので、故郷に帰ることにしたのでしょう。ガリラヤはエルサレムから見れば田舎で、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と弟子のナタナエルが言ったように、蔑まれた田舎者の無学な大工としてイエスは育つことになります。これも神の計画でした。

 何もできない赤ん坊として生まれたキリストは、神の導きとヨセフの従順な信仰により守られました。これ以降ヨセフは聖書に登場しません。ヨセフにも様々な思いがあったでしょうが、神に従い大切な役目を果たしました。

 今年は、ヤコブ、ヨセフ、エレミヤと、旧約聖書を主に学んできました。
 神様は人間の愚かさを通してもご自身の約束を実現させようと、忍耐をもって人々を導いてきました。マタイもまた、罪のただなかで神の救いのご計画が間違いなく進んできたことを記しています。
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マタイ福音書1章 イエス・キリストの誕生

聖書から
01 /14 2024
イエス・キリストの系図
 系図の中で知っている名前がどれくらいありますか。ダビデまでは割と知ってるかもしれませんが、それ以降は難しいですね。
 大事なのは、イエス様が単にアブラハム、ダビデの子孫だいうだけでなく、神様の約束を受け継ぐお方、メシヤ、キリストだということです。マタイはそのことを示したかったのです。
 系図の中に女性が4人登場しますが、遊女や、異邦人や不倫相手だったり、恥ずべき歴史が記されていて、そのような罪の系図の中にイエス様は生まれてくださいました。ただ私は、この女性たちは男性優位社会の犠牲者なのではと思います。事実イエス様は、このような弱い女性たちの味方でした。

 系図の途中でバビロン捕囚というのが入っているのが奇異な感じです。これはイスラエルの歴史で国を失ったこと、そしてイエス様の時代まで続き、ローマに支配されていることがいかに大きな事柄であるかを物語っています。
 エレミヤ書の学びで見てきたように、神から離れたイスラエルの罪の影響が未だに尾を引いているようです。

イエス・キリストの誕生
 マリヤの妊娠を知ったヨセフはどんな気持ちだったでしょう。昔の人は信じやすいなどということはありません。離縁しようと決めても、眠れずに思い悩む彼の苦悩が読み取れます。
 あなたは、イエス様が聖霊によって生まれたことをどうようにして信じましたか。最初は誰でも信じられないでしょう。クリスチャンであっても、どうして信じてるのか説明できない、と正直に話してくれた人もいました。
 神話だとか、たとえだとかいうことで納得する必要はないでしょう。わからないことがあってもいいのです。「処女降誕」を信じるかどうかが問われているのではなく、イエス様を救い主として信じることが大切です。

イエスはどんな方?
 み使いは、イエス様は民の罪を救うお方だといいます。イエスという名前は、ヘブライ語で「神は救う」という意味があります。そしてそれは旧約聖書のイザヤの預言の成就だといいます。しかしその預言は「インマヌエル、神は共におられる」という預言で、ちょっと違うような気がしますが同じことなのです。

 それは罪とは何か、救いとは何かということです。
 聖書で言う罪とは、神さまから離れていることなのです。イエス様が罪から救うとは、神から離れた私たちを神のもとに帰らせてくださるということです。エレミヤ書で神様が何度も「わたしのところに帰って来い」と呼びかけていることを読みました。

 子供にイエスの救いを教えるのに、「イエス様を信じれば、罪で真っ黒な心が真っ白になる」というのを聞いて違和感を覚えたと言う人がいました。確かに子供には単純で分かりやすいかもしれません。しかしクリスチャンになっても決して心が真っ白なんかじゃないことはすぐにわかります。そんな私たちを赦し、愛して、共に歩んでくださる神を知ることが救いなのです。

 アフガニスタンの人々に仕え、2019年12月に銃撃され死亡した中村哲医師は著書の中で、「神が共におられるということこそ、聖書の神髄」と書いています。
 
 「神が共におられる」という福音を、ご自身の生涯を通して明らかにしてくださったイエス様の誕生を、今年も心からお祝いしましょう。
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牧師は先生??

コラム
11 /15 2023
「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」マタイ23:8
9月に岐阜市で開かれた「日本伝道会議」(プロテスタントの福音派が7年に一度行う集会)で、運営するスタッフの牧師同士がお互いに「〇〇先生」と呼ばないという取り決めをしていたということが話題となった。

プロテスタントのキリスト教会で牧師を「先生」と呼ぶ習慣は日本独特であり、その弊害については、ずっと前から指摘されてきた。

主イエスがマタイ23章で「先生と呼ばれてはいけない」と命じられたが、主イエスの意図も後藤氏の主張も、単なる呼称の問題ではなく、そこに牧師と信徒の関係性を歪める問題が潜んでいるからである。

日本では、医者や弁護士、国会議員など、権威のある人に対して「先生」と呼ぶ。これは中国語の「先生」とは違う日本独特の意味が込められている。
その日本で牧師を先生と呼ぶことは、牧師と信徒がどういう関係性なのかを暗黙の内に規定している。日本独特の縦社会の権威構造が、教会の中に持ち込まれてしまう。

さらに後藤氏の指摘によれば、医者や弁護士の権威はその人の全生活や全人格の領域までは及ばない。しかし牧師の権威はややもすれば信徒の全人格にまで影響し、それが永続的に続くのである。

もちろん、ほとんどの牧師は権威を振りかざすような方々ではなく、私も多くの尊敬すべき牧師を知っている。しかしその関係性が信徒の側で強く意識されているのは事実である。
教会に来て福音に触れ、救われて教会に初めて加わる多くの日本人は、牧師を「先生」と呼ぶ文化の中に「教会とはそういうもの」と思い込んでいくのだろう。私自身もそうであった。

しかし、そこでは健全は信徒の成長は期待できない。
社会全体が縦型の構造から、フラットで個人の尊重される社会に移行しつつある。インターネットの発達もそれを加速している。
学校教育も一方的な教育から、双方向的な学びへと変わろうとしている。
そのような時代に前時代的な教会のあり方で信徒が育つだろうか。
それどころか、カルト的とさえ誤解されかねない危険性をはらんでいる。

牧師の高齢化、牧師不足が深刻であることは今回の伝道会議に合わせて発行された「宣教ガイド2023」でも明らかで、信徒リーダーの育成が必要である。

そのような意識を持っている若い牧師たちがいることを知り、少しは安心した。
最近は「牧仕」や「牧士」という肩書を使う方も増えてきたようだ。
しかし、信徒レベルでその意識が変化するには時間がかかると思う。
今回の取り決めをこの会議中だけにとどめず、勇気をもって変革してくれることを期待したい。

(この原稿を書いている途中で、この議論をしている動画を発見しました。)
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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)