天の父に信頼して生きる マタイ6章19節~34節

聖書から
05 /13 2024
天の父に信頼して生きる マタイ6章19節~34節

いよいよ山上の説教の第3段落に入りました。
第1段落では、天の父のように隣人を愛し、敵をも愛するようにと人間関係について、第2段落では、人に見せるのではなく、天の父のまなざしのもとで生きることを教えてくださいました。
第3段落では、そのように天の父の子として生きるためにとても大切なことを教えていると思います。また主の祈り、特に「日ごとの糧を今日もお与えください」、という祈りの基礎、バックボーンともいえると思います。

6:19-21 天に宝を蓄える

 「あなたの宝を天に蓄えなさい」 あなたの宝とは何でしょうか。新共同訳では「富」と訳されていますが、24節の「富」とは違う言葉で、宝物というほうがふさわしいでしょう。前の段落とのつながりで考えれば、自分の報いは地上のもの、父からの報いは天にある宝、と言えるでしょう。
天とは死後の世界ではありません。死んだ後に天国でいただけるご褒美ではありません。あるいは生きているとき行ったよい行いが貯金のように積み上げられるわけではありません。
 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 あなたの心がどこに向いているか、何を拠り所として生きているかが問われているのです。
人からの称賛や名誉、地位、富や財産などに心を向けるのではなく、天の父のみこころ、父からの報いに心を向けなさいということです。

22-23 「からだのあかりは目」

 前の段落で、「あなたの心はどこにあるか」が問われましたが、ここでは「あなたの目はどこを見ているか」が問われています。目が澄んでいる、健全であるという言葉は、純粋、ひとすじという意味があります。あなたの目はひとすじに天の父を見ているか、ということではないでしょうか。見るべきものを誤るとそれは全身=全生活に影響を及ぼすのです。

24 「ふたりの主人に仕えることはできまい」
 天の父にひとすじに目を注ぐとき、同時に富にも目を注ぐことはできないのです。それは二人の全く異なる主人に仕えることを意味します。ここでいう「富」はアラム語で、富、財産、貪欲を象徴し、人を支配するものとして擬人化されています。

25ー29 「だからわたしは言う、心配してはいけない」

 神のみに仕える決断をしたとして、現実には生きていく上で様々な必要があります。そこで私たちが心配する(思い煩う)とき、富への誘惑となり、天の父から目をそらすかもしれません。そこで主イエスは「だからわたしは、あなたがたに言う」と、いつも大切なことを教えるとき使う言い回しをして、「心配してはいけない」と言われます。
26 「空の鳥を見なさい」 
 鳥は今日の分だけ、必死に餌を探していますが、明日のために蓄えていません。「あなたがたの天の父」が養ってくださるのです。私たちは働かなくていい訳ではありません。「労苦はその日一日で十分ある」(34節)とあります。
28 「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい(注意しなさい、考えなさい)」
 さらになぜ着る物を心配するのか、言われます。もちろん、現代の物が有り余る中で「今日は何を着ようか」というのとは違って、当時の貧しい人々にとって、寒さを防ぎ、身を守る衣服が大事だったのです。しかし天の父は「よくしてくださらないわけがない」と主イエスは言います。
30節で「信仰の薄い者たちよ」と言われていますが、これは主イエスが私たちの不信仰を嘆いているのではなく、「あなたがた、信仰の少ない者たちであっても、よくしてくださらないことがあるだろうか」とも訳せるのではないかと思います。(あくまで個人的な解釈ですが)
31節で「だから心配するな」と再び言われます。「あなたがたの天の父はあなたがたの必要をご存じである」からです。それにもかかわらず、くどくどと繰り返して祈るのは、異邦人の祈りと同じなのです。主の祈りのところで述べたように私たちはこの父に信頼して「日々の糧を今日もお与えください」と祈るのです。
33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
 私たちが真に求めるべきものは、食べ物や衣服ではなく神の国とその義、すなわち神の子として生きることなのです。それはまた「主の祈りを生きる」ことにほかなりません。
34 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
天の父に信頼する生き方は、心配、思い煩いから解放されて、神と隣人を愛して一日を精一杯生きることです。それが山上の説教で主イエスが教えてくださったことではないでしょうか。
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主の祈りを生きる その2

聖書から
05 /01 2024
主の祈りを生きる

隠れたところで祈りなさい、と教えた後で主イエスは、主の祈りを教えました。山上の説教の第2部のさらに真中に置かれた「主の祈り」は、山上の説教の中心とも言えます。「主の祈り」について書かれた有益な本は数多くありますが、今日は特に山上の説教の中心にある祈りとしての特徴を見ていきます。
その直前で「異邦人のように何度も同じ言葉を繰り返してはいけない」と言われました。異教の祈りは、その熱心さによって願いをかなえてもらうのが目的です。しかし父なる神は「祈る前に、あなたがたの必要を知っておられる」といいます。ではなぜ私たちは祈るのでしょうか。
それは願いを叶えてもらうのが祈りの真の目的ではないからです。

「だからこう祈りなさい」と主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、祈りの真の目的を教えてくれます。
主の祈りの前半は神についての祈りで、後半は自分たちについての願いですが、どちらも主イエスの語られた教えと関連しており、その祈りは私たちがなすべきことをも教えています。
すなわち主の祈りを祈ることなしに主イエスの教えを実行することはできず、また天の父の子として生きる上では、主の祈りは必要不可欠なのです。

それでは主の祈りがどのように主イエスのことばと関連しているかを見ていきましょう。

天のいます私たちの父よ
 主イエスは山上の説教の中で何度も「あなたがたの天の父」と言われています。7章11節では「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」とあります。私たちは愛されている子どもとして安心して祈ることができるのです。

御名があがめられますように
 5章16節では、父があがめられるように、地の塩、世の光として生きなさいと言われました。私たちもこの祈りを祈るとき、父があがめられる生き方を問われています。

御国が来ますように
 5章の最初で、私たちは天の御国に入れていただいたと学びました。やがて来る神の国の完成を待ち望みつつ、いま神の御支配のもとに生きることを求められています。

みこころが天で行われるように地でも行われますように
 7章21節に 「父のみこころを行う者が(天の御国に)入る」と書かれています。私たちがみこころを求め、みこころに従うときにみこころが地で行われるのです。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください
 6章25節に「何を食べようか・・心配するのはやめなさい」とあります。私たちの必要はすべて知っておられるのですから、その父に信頼して「今日も与えてください」と感謝をもって祈るのです。同時に「私たち」とあるように他者の必要のためにも関心を持ち祈るのです。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました
 人を赦すことが、自分の赦しの条件と考えるべきではありません。「人にして欲しいことは人にもしなさい」という律法の本質に従うなら、他者を赦さずに、自分の赦しだけを父に求めるべきではないでしょう。5章24節の和解(仲直り)の教え、5章44節の「敵を愛し、祈りなさい」という教えの適用でもあります。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください
 7章15節に「偽預言者に注意しなさい」とあり、彼らを見分けなさいと言われています。

人に見せるために行っている偽善者たちへの警告の中で教えられた「主の祈り」は、私たちの心を父なる神に向け、父と子の関係の中で祈り、生きることを教えてくれるものです。

主の祈りを生きることこそが、パリサイ人の義にまさる義であり、天の御国に生きる者の生き方なのです。
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主の祈りに生きる その1 マタイ6章1~18節

聖書から
04 /28 2024
主の祈りを生きる マタイ6:1-18 

山上の説教は、5章前半の導入と7章後半の結論に挟まれて、3つのテーマが主イエスによって語られます。

前回はその第1部である、律法の解釈についての話題でした。「昔の人々にこう言われているのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたにこう言います」と、律法の本来の意味を解き明かし、天の父のように敵を愛しなさいと締めくくられました。

今日の第2部は、パリサイ人が行っていた3つの善行を取り上げ彼らの偽善を指摘し、人の称賛を求めずに天の父のまなざしの下で行うべきであることを教えます。

天の父のまなざしの下で生きる

私たちも人の目を気にしたり、人からどう思われているかを気にしながら行っていることはないでしょうか。パリサイ人は貧しい人に施しをするときや、1日に3回お祈りをするとき、そして週に2度断食をするとき、それが人に見えるところで行っていたのです。主イエスはそのような人は自分の報いを受けてしまっているので、天の父からの報いは受けられないと言います。この自分の報いの「報い」とは原語では「報酬」を意味します。報酬とは当然受け取るべきものです。「自分はこれだけのことをしたのだから当然だ」という思いで人からの称賛を受けているのです。
しかし、隠れた所で人の評価を求めず、天の父のまなざしの下で行ったときに与えられる「報い」とは原語では「お返し」という意味です。好意の贈り物をするときに「報酬」を求める人はいません。「お返し」さえ期待するのは間違いです。
しかし、天の父は、報いを求めずに行った私たちに対して「お返し」をしてくださるというのです。それは何かはわかりません。いついただけるのかもわかりませんが、素晴らしい恵みの贈り物に違いありません。

主の祈りを生きる

隠れたところで祈りなさい、と教えた後で主イエスは、主の祈りを教えました。山上の説教の第2部のさらに真中に置かれた「主の祈り」は、山上の説教の中心とも言えます。「主の祈り」について書かれた有益な本は数多くありますが、今日は特に山上の説教の中心にある祈りとしての特徴を見ていきます。
その直前で「異邦人のように何度も同じ言葉を繰り返してはいけない」と言われました。異教の祈りは、その熱心さによって願いをかなえてもらうのが目的です。しかし父なる神は「祈る前に、あなたがたの必要を知っておられる」といいます。ではなぜ私たちは祈るのでしょうか。
それは願いを叶えてもらうのが祈りの真の目的ではないからです。

次回は主の祈りを詳しく見ていきます。

参考:
主の祈りを中心とした山上の説教の構造
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「天の父の子どもになる」 マタイ5:21-48

聖書から
04 /15 2024
「天の父の子どもになる」 マタイ5:21-48

前回は、キリストが与える義と、パリサイ人らの義が本質的に違うものだと学びました。
前回は読みませんでしたが、ルカ18:9-14にはそのことが明確に示された主イエスのたとえがあります。パリサイ人は「わたしは律法をきちんと守っています」と祈っていますが、取税人は「私の罪をお赦しください」と祈っており、義とされたのはこの取税人のほうだと主イエスはおっしゃっています。心の貧しい者、義に飢え渇く者、へりくだった者が天の御国に入れられているのです。

そして主イエスが成就すると言う「律法と預言者」とは何かという結論が7章12節に書かれているのを見ました。
  「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
これは言い換えれば「隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということですね。これに加えて「あなたがたは幸いです」、「あなたがたは地の塩、世の光です」というこの3つを土台として山上の説教を読むときに、主イエスの教えられた意味がよりはっきりと分かると思います。
このことを踏まえて今日の箇所を学んでいきましょう。

今日の箇所はそれぞれの段落が同じように始まっていますね。
「昔の人々に~と言われているのを、あなたがたは聞いている」 というのは当時のラビも使っていた表現のようですが、旧約聖書の律法とユダヤ人の言い伝えを主イエスは取り上げています。
続けて主イエスは、「しかし、わたしはあなたがたに言う」 と続けます。「わたしは」というところは原語では「エゴー」という言葉が加えられていて(エゴイズムの語源)、わたしを強調しています。すなわち、主イエスが権威をもってこの教えの本質を教えようとしているのです。

結論から言うと、この箇所は「隣人を愛すること」を具体的に教えています。
 「殺してはならない」 = 隣人との和解を第一優先に
 「姦淫してはならない」 = 結婚を大切にする
 「誓ったことを果たしなさい」 = 誠実なことばを語る
 「隣人を愛し、敵を憎め」 = 敵をも隣人として愛する

「殺してはならない」=隣人との和解を第一優先に

主イエスは怒ること、ばかにすること、侮辱することも実際に人を殺すことと同じであると言います。これは私たちもよくわかると思います。日本の殺人の半数以上は怨恨によるものだそうです。人を殺してしまうその根っこには怒り、憤り、人を見下すことなどが潜んでいます。

そして主イエスはただ「怒ってはならない」というだけでなく、仲直り(和解)しなさいと言います。しかも「兄弟に恨まれているのを思い出したら」、つまり怒っているのは自分ではなく他者なのです。誰かが自分に対して怒っているなら、すぐに仲直りしなさいと言うのです。それは神様に供え物をするよりも先にまずするべきことだと言います。
「わたしを礼拝するのは良いけれど、その前にあなたはやるべきことがあるだろう」と神様は言われます。
それが地の塩、世の光である私たちの務めなのです。

「姦淫してはならない」=結婚を大切にする

情欲をもって女性を見るなら心の中で姦淫を犯したことになる、多くの男性が刺される言葉です。
右目右手を失っても、とは誇張表現ではありますが、それだけつまずきとなるものを徹底的に取り除きなさいということでしょう。
ただここで大事なことは夫婦関係、結婚を大切にすると言うことではないかと思います。姦淫とは既婚者が対象であり、文脈から見て次の「離婚状を与えよ」という段落と一体で考えるべきでしょう。

女性の立場が弱かった当時は、離婚状は女性が離婚していることを証明し再婚することを可能にするものだったようです。しかし当時の男性は、些細な理由で(飯がまずいとか)離婚する口実に使っていたようです。(マタイ19:3-10 弟子たちもその程度の理解だったようです)
主イエスは「神が結び合わせた者を引き離してならない」と教えられたように、安易な離婚と再婚は妻と自分に姦淫させることになると言います。
聖書は離婚を全く否定してはいませんが、結婚を大切にすることを教えています。(へブル13:4)

「誓ったことを果たしなさい」=誠実なことば

当時の人々は天、地、エルサレム、自分の頭にかけて誓うことは、神にかけて誓うのではないので誓いを破っても構わないとしていたようです。しかし主イエスは軽率に誓うことや、簡単に誓いや約束を破ることを戒めています。神にも人にも誠実であることを求めていると思います。(結婚の誓いに誠実であることも含まれるかもしれません。)

「目には目を」「隣人を愛し、敵を憎め」 = 敵をも隣人として愛する

「目には目を」と言う言葉は少し誤解されていますが、本来は過度の報復や過度の刑罰を抑止するものですが、主イエスは個人的な関係においては悪に悪を返さない、暴力によって対応しないことを求めています。我慢して暴力に耐えるのではなく、復讐する思いから解放され、「善を持って悪に打ち勝つ」と言う言葉のように、逆に相手がひるむほどに堂々と相手に向き合うことです。

「敵を憎め」という言葉は聖書にはありません。ユダヤ人たちの言い伝えでしょう。主イエスは、隣人だけでなく、敵をも愛しなさい、それは「天におられるあたたがたの父の子どもになるため」だと言います。これ以降「あなたがたの天の父」ということばが、山上の説教の中で14回出てきます。天の父は悪人にも善人にも、神の敵となっている人にも雨を降らせてくださるお方です。

ここで私たちは自分を悪人の側において考えないかもしれません。しかし私たちもかつては「神の敵」であったことを思い起こしましょう。敵であった私を神は愛して救ってくださり、父の子どもにしてくださいました。ですから子どもである私たちも敵を愛するべきである、そのように私たちも成熟して「天の父のように完全になる」ことを主イエスは願っておられるのです。「完全」とは成熟や成長を意味しています。愛において成長することを目指していきましょう。

今日の箇所で主イエスは、律法とは「隣人をあなた自身のように愛する」ことだということを、具体的に教えてくださっています。そして「誰が私の隣人か」と区別せず、夫婦、兄弟だけでなく敵をも愛することを求めておられます。それは一般的な倫理ではなく、天の父の子とされた私たちにとって、地の塩、世の光としてふさわしいことなのです。


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パリサイ人にまさる義 マタイ5章13-20節

聖書から
03 /25 2024
5:13-16 天の父があがめられるように

イエス様は「あなたがたは地の塩です」、「あなたがたは世の光です」と言われました。
塩の役割とは何でしょうか。腐敗を防ぐ、味を付けるなど、思いつくでしょう。私たちが塩であるなら、私たちが味を付けるとはどういうことでしょうか。無味乾燥とか味気ないいうことばがありますが、反対に私たちの存在が人々の中で「味わい」となるような、そんな人になりたいと思います。また人々を照らす光のような存在になれたらと思いますね。
しかし、それは私自身から出たものではありません。「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われたように、私たちはイエス様の光を頂いて輝くのですね。
自分の力で地の塩、世の光に「なる」のではなく、「(今、すでに)あなたがたは地の塩、世の光です」と言われています。その与えられた塩が塩気をなくしたり、イエス様の光を隠したりしないようにしましょう。

また私たちの「よい行い」とは、私たちではなく、「天の父があがめられる」ような行いです。(16節)私たちが父の祝福(5:3-10)の中に生きる姿を見て、人々が背後におられる神様を讃えることが大切です。
 
5:17-20 パリサイ人の義にまさる義
イエス様はパリサイ人らが罪人の烙印を押す人々を受け入れました。しかしそれは罪などどうでもいいということではありません。「律法の一点一画もすたれることはない」のです。イエス様は「律法と預言者を成就する(満たす、完成させる)ために来た」と言われました。
そして21節以降で「ばか者」というだけで殺人と同じだ、というようなイエス様の言葉を聞き、イエス様の教えは厳しいなあ、と誰もが思い、意気消沈してしまうでしょう。

イエス様は私たちの罪深さを示し、意気消沈させるためだけに山上の説教を語られたのでしょうか。正直私自身、この学びをするまではそのように感じていました。この箇所をどのように皆さんにお話しするべきかと悩み、たくさんの神学書を読んで、そうではないことがわかりました。

それによって「山上の説教」の読み方が大きく変えられました!

19節には、律法を破ったり、そう教える者は「天の御国で最も小さい者」だと言われます。
しかし、20節では「あなた方の義が、パリサイ人らの義にまさっていなければ、天の国に入れない」と言われています。破った者は、最も小さい者と言われても天の御国にはいるようです。しかしパリサイ人の義では入れないというのです。不思議なことばですね。

では「あなたがたの義」とはどんな義でしょうか。
それは「信仰による義」であり、キリストが与えて下さった義なのです(ローマ3:21-24)
まもなくイースターですが、イエス様の復活を信じる者は「義と認められ」ています(ローマ4:25)
6節の「義に飢え渇く者」は神によって満たされるのです。

パリサイ人の義はキリストが与える義とは質が違う義なのです。程度の問題ではありません。
パリサイ人は613の戒めを守ることで義を得ると信じていました。彼らは自分の義、自分が褒められることを求めたのです。先ほどの「天の父があがめられるように」とは真逆なのです。

5:21以降の「殺すな」「姦淫するな」などの教えは、より厳しい倫理を求めているのではなく、律法の本来の目的を明らかにし、パリサイ人の義と、キリストの与える義との決定的な違いを説明しているのです。

先取りするようですが、山上の説教の結論が7章21節にあります。
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という有名はイエス様の教えと同じことを言っています。これがイエス様が完成させる律法と預言者すなわち聖書の本質なのです。
この点を踏まえて、これ以降を学んでいきたいと思います。

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Luke Tokita

プロテスタント福音派信徒、在野聖書研究者です。

eBile Japanというサイトを運営しています。メルマガも発行してます。

教団、教派、特定の神学にこだわらず、信徒として学んだことを書き留めています。

いわゆる「キリスト教こたつ記事」です。

eBible Japan(http://ebible.jp)