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「パラクレートス」 私の傍らにいてくださる方

「パラクレートス」 私の傍らにいてくださる方


わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 ヨハネ14:16


しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 ヨハネ14:26 


助け主 ギリシャ語で「パラクレートス


パラ=傍らに、そばに   クレートス=呼ばれた者


私たちを助けるために、私たちのそばに呼ばれた者、いつも傍らにいてくださる方、それが聖霊です。
  1. 弁護士として、わたしたちのためにとりなすお方
  2. 助け手として、いつもそばにいて慰め、励まし、助けるお方
  3. 教師として、神様のことばを思い起こさせてくださるお方


もう一人の助け主 イエス様もパラクレートス


  まもなく十字架に架かるイエス様と二度と会えない不安の中にある弟子たちに、イエス様と同じパラクレートスなる聖霊様を紹介。


見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)  
 
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神の恵み

「お宅の屋根に何ができたの?」
「ソーラーパネルだよ。」
「太陽光発電ってやつ?」
「そうさ。これで電気代が安くなるし、環境にも貢献するのさ。」
「そーらーよかったね!」

”天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも
正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。”(マタイ5章45節)

--------------------

神の愛はすべての人に注がれています。

その証しは、自然の恵みです。

私たちが生きていくために必要なものはみな、自然を通して神様から与えられています。

太陽の光、熱、水、空気、食物など、私たちの努力など微々たるものです。

そしてそれは私が何か良いことをした報酬ではありません。

無条件に与えられています。

神の恵みは、どんな人にも注がれています。そーらー感謝ですね。

皆さまの上に神様からの祝福と恵みがありますように。

◆---◆---◆---◆---◆---◆---◆---◆---◆---◆
メルマガでも配信中(不定期)


マタイ5章45節
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ブログ移転

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進化論と聖書信仰は両立できるか 4

3.神を信じる積極的理由

進化論の問題を保留にしておいても、神を信じる理由はたくさんある。その代表的なものを挙げておこう。

神を発見する方法は大きく分けて2つある。

・自然を通して - 科学が明らかにしてきた、宇宙や生物の驚くべき構造や成り立ちを通して、神を知ることができる。これをキリスト教では一般啓示と言う。

・聖書を通して - 聖書に記された神を知ること、特にイエスキリストの十字架と復活の出来事と、その世界的影響を通して神を知る。これを特殊啓示と言う。


宇宙には始まりがあった

現代ではビッグバンによって137億年前に宇宙が始まったことが分かっているが、過去、宇宙は永遠だと考えられていた。しかしアインシュタインの一般相対性理論によって予測され、観測によって確認されたのである。

聖書は数千年前から、宇宙に始まりがあったことを記す。
存在し始めるもの、運動するものすべてには原因がある。物質(エネルギー)と空間と時間で構成される宇宙を生み出した原因があるはずである。

「ビックバン自体が神の存在を強く示唆している」フランシス・コリンズ 「ゲノムと聖書」P75

ビッグバンの証拠となった宇宙背景放射を発見してノーベル物理学賞を受賞した天文学者アーノ・ペンジアスも、神を信じるクリスチャンである。

宇宙は知的生命が存在するために最適に調整されている

自然界の物理定数が今とわずかでも異なれば、人間も太陽も原子すら生成されなかったと考えられている。ビッグバン直後のエネルギーのバランスが数%違っていたら、水素だけであったり、水素が全く無い宇宙になっていた。生命のためには、水素、炭素、酸素などの様々な元素が必要である。

電子と陽子の数のバランスが少しでも違ったら、電磁力が重力に勝り、星が形成されず、生命も存在できない。電子と陽子のバランスは10の37乗分の1の確率であり、同じように微調整されている物理特性は77個ある。宇宙が生まれてから「まだ」10の18乗秒しか経っていないにもかかわらず。

「宇宙は意志と目的をもって創造され、この信念は科学的な営みによって妨げられることはない」
ハーバード大学 天文学者 オーウェン・ギンガリッチ (「神の宇宙」の著者)

 しかし「宇宙の微調整」があり得ないことだから、「これは神の超自然的な介入だ」、というべきではない。「宇宙の微調整」の理由がいつか科学的に解明されるかもしれない。2012年にその存在が確認されたヒッグス粒子は、それを解明する手掛かりになるという。現時点ではまだ結論は出ていないが、それもまた神の知恵の偉大さを教えてくれるだろう。そういう意味では生物進化のメカニズムも同様に神の計り知れない知恵の産物かもしれない。

 「神が立てた法則の素晴らしい仕組みを正しく評価することは、神への礼拝として喜ばしく受け入れられるものであることは確かであろう」(コペルニクス)

 科学があらゆるものを解明したとしても、それは人間が作り上げたものではなく、ただそこに存在するものを説明したにすぎない。
 超自然的なものでなく、自然の中にそのような驚異的な秩序が存在すること事態が神を示唆しないだろうか。

 「我々の理解可能性こそが説明を必要とする」(A.E マクグラス)

 私たち人間が、その知恵や抽象的な数学を用いて、宇宙の謎を解明し、理解できること、それ事態が驚異であるとマクグラスは言う。


神が存在しないならば、客観的、道徳的な価値と義務が存在しない

殺人、盗みが何故悪なのか、人に親切にすることは何故善なのか、動物には、この基準は無い。
殺人を善とする文化、法律はどこにもない。他者を犠牲にして得る幸福も認められていない。

道徳が進化の途上で形成されたものだとすれば、自分が生き残るために弱い者を殺すことが認められないのはなぜか、自分を犠牲にして他者を助けるのは賞賛されるのはなぜなのか。

ダーウインは晩年の著書「人間の由来」で、道徳、倫理の形成を進化論から解き明かそうとしている。今日でも多くの進化論者がこの問題を議論しているが、彼らは動物と人間に本質的違いは無いという前提から出発している。しかし道徳は文化的、社会的、宗教的背景を抜きにして論じることはできない。

 カトリック教徒であり進化生物学者のフランシスコ・J・アヤラは、「道徳的規範」は、生物学的プロセスによるのではなく、宗教的、社会的伝統を含む、「文化的進化」の産物であると主張している。

ドフトエスキーはその作品の中で「神が存在しないならば、すべてのことが許されてしまう」という問題提起をしている。神がいなければ「悪」という概念も存在しない。無神論共産主義が、どれほど残虐な行為を正当化したか、歴史が証明している。人間の善悪、正、不正の概念が進化の過程で得たものであるとは、あまりにも単純過ぎないだろうか。

誰一人完全に守れない道徳が私たちの中に存在することも、絶対的な基準である神が存在することを示唆していないだろうか。

キリストの復活

“その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。”(使徒15:6)

このパウロの証言は、パウロの回心後4~6年後に書かれたと推定されている。したがってこれが嘘であれば、キリスト教に反対するユダヤ人たちが容易にこれに反駁できる証拠を見つけるだろう。

彼らが自らが望むことを幻覚で見たという反論がなされることも多い。しかし何百人もの人々が同じ幻覚を見ることはない。

しかもパウロは迫害者であって、復活を期待などしていなかった。

命を捨てた弟子たち

ほとんどの弟子たちは迫害され、殉教した。誰が嘘のために死ぬだろうか。イエスの死体を隠して益を得るのは弟子たちだが、もしそうなら、嘘だと知っていながら命がけで宣教するだろうか。

困惑の原理

作り話の場合には、都合の悪いことは隠される。
当時、女性の証言は信用されなかった。しかし復活の最初の証人は女性である。

4つの福音書には一見矛盾とも思える食い違いがある。この食い違いはむしろ信ぴょう性を高める。
もしある事実の目撃者を数人呼び出し、個別に証言を聞き取ったなら、詳細までまったく一致することはありえない。もし一致した場合は口裏を合わせたと疑われるだろう。

聖書をどう読むか

聖書の歴史的信憑性、内的一貫性は確かである。そしてイエスという偉大な人物が自らを神の子、救い主としたのは、妄想か、詐欺か、真実かのいずれかである。様々観点から検証、判断して、私はイエスという人物は神の子であると認める。そしてその救い主による人類の救済に至る壮大な神の計画を、聖書(創世記冒頭の創造物語を含めて)が我々に示していると信じる。

創世記の創造物語は、そのような視点で読むのが正しい読み方であり、生物学を議論するためでないのである。

終わりに

 進化論と創造論について長々と書き連ねてきたが、ある人にとっては自明のことで「何をいまさら」という感想も聞こえてきそうである。
 しかし人が一度確信した信念を、そう簡単に変えることは難しい。特に若いときに確信したものであったり、人生を大きく変えた信念である場合尚更である。すでに認知バイアスもかかっているだろうから、何でも都合の良いように、すなわち自分の信念を変えないように、今までの自分の生き方を否定しない方向に解釈しがちである。特に信仰に関わる事柄を軌道修正するのは難しい。人間は変わることを望まない。
 それ故にこの記事をまとめるために、多くの書物を読み、思索し、迷いながら数年を費やしたのは当然であろう。
 この稚拙な記事が、同じような疑問に悩む方々の参考になれば幸いである。




参考・引用文献

リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳「神は妄想である―宗教との決別」早川書房、2007年
A・E・マクグラス、J・C・マクグラス著、杉岡良彦訳「神は妄想か?」教文館 2012年
フランシス・コリンズ著、中村昇、中村佐知訳「ゲノムと聖書」NTT出版 2008年
A・E・マクグラス著、稲垣久和、倉沢正則、小林高徳訳「科学と宗教」教文館 2009年
ジョン・ポーキングホーン著、小野寺一清訳「科学者は神を信じられるか」講談社 2007年
ジョン・ポーキングホーン著、小林徹郎、松本武三訳「世界・科学・信仰」みすず書房 1987年
山中伸弥、益川敏英著、「大発見の思考法」文春新書 2012年
チャールズ・ダーウイン著、渡辺政隆訳「種の起源」(上下)光文社 2010年
フランシスコ・J・アヤラ著、藤井清久訳「キリスト教は進化論と共存できるか」教文館 2008年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙の起源」つくばクリスチャンセンター 1997年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「宇宙創造と時間」いのちのことば社 1999年
ヒュー・ロス著、ティモシーD・ボイル訳「創世記の謎を解く」いのちのことば社 2000年
デレク・キドナー著、遠藤嘉信、鈴木英昭訳「創世記・ティンデル聖書注解」いのちのことば社 2014年
内井惣七著、「ダーウインの思想―人間と動物のあいだ」岩波新書2009年
スティーブン・ジェイ・グルード著、「神と科学は共存できるか」日経BP社 2007年
バーナード・ラム著 「聖書解釈学概論」 聖書図書刊行会1978年

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進化論と聖書信仰は両立できるか 3

2.進化論(科学)と信仰の両立

 結果的にドーキンスら無神論者の主張に対してもっとも論理的かつ明確に反論していたのは、なんと「進化論を認める」クリスチャン科学者や神学者であった。例えば、A・Eマクグラス、彼はドーキンスと同じオックスフォード大学で、分子生物学と歴史神学の博士号を授与された神学者である。著書に「神は妄想か」(教文館)「科学と宗教」(教文館)など。また、フランシス・コリンズは国際ヒトゲノム計画のリーダーを勤めた遺伝学者である。 彼らはドーキンスの無神論と、反進化論の創造論の双方に対して批判し、科学と信仰が矛盾しないことを明らかにしている。
 正直に言えば、私は「進化論を認めるクリスチャンなどは本物のクリスチャンではない」とかつては思っていたのである。なんと傲慢なことか。

 最近、教会の説教の中では進化論について語られることはほとんど無い。若い頃の行っていた教会が特殊だったせいもあるが、それにしても、福音派でも若い牧師ほど反進化論傾向が無くなっているようだ。

福音派も進化論を受け入れる?

 日本基督教団をはじめとする所謂リベラル派の教会においては、聖書は神話であると考える人々もおり、少なくとも進化論は科学的事実として受け入れているようである。しかし創造論者の多い福音派の出版物の中に驚くべき記述を見つけた。
 日本の福音派で現在人気があり、多くの牧師が参照していると思われる「ティンデル聖書注解」の日本語訳は福音派の「いのちのことば社」から出版されている。
 その第1巻「創世記」の中に驚くべき記述を見つけた。著者のデレク・キドナーの個人的見解としながらも、神が進化のプロセスを用いた可能性を示唆しているのだ。

 その中で彼は人類の起源を考察した箇所でこう述べている。

「創世記の本文も決して否定し去ってはいないように、もし、神が初めに進化の過程を用いて人を形造ったとするならば、」(P30)

と、創世記は進化を否定していないという。また創世記1章の「地は..生ぜよ」(注1)という表現について、

「もし、こうした言葉遣いが進化による創造という仮説に良く合致しているように思われても(本書の筆者はそう考えているが)、この仮説だけが、この言葉遣いから導きだされる唯一の体系ということではない。」(P62)

と控えめながら、個人的には進化による創造という仮説を支持すると述べている。福音派の聖書注解で、このような記述に出会ったのは初めてである。

 デレク・キドナーの言うように、神が生物に限って「地は..生ぜよ」と命じた記述が進化論を暗示しているのかもしれない。神が命じてから「そのようになった」というまでに、長い時間かけて進化したと考えられなくもない。神には時間の制約が無いのだから、命じたことがすぐに実行されるというのは人間の思い込みである。

(注1)神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。(創世記1:24 新共同訳)


創世記のテーマは何か

 聖書は(旧約、新約を含めて)ひとつのテーマに貫かれている。それは神による人類の救いである。そしてそのはじめである創世記は、救いの計画のためにユダヤ民族が選ばれるというテーマがある。

 ユダヤ民族の父祖アブラハムが神に選ばれるは創世記の12章であり、その前の1章から11章はプロローグである。すなわち、どのように人類は堕落したのか、そもそも人間とは何なのかということが簡潔に記されている。1章で神が造られた世界は完璧だったことが強調され、2章では人間がその世界を管理する神のパートナーとして祝福されている。しかし3章に入ると、人は神に反逆を始め、堕落が始まる。

 これが創世記の伝えるメッセージであり、地球や生物の成り立ちを教える書物ではない。まして古代の人々に天文学や生物学のことを書いても仕方が無い。「神が造られた、そしてそれは完璧だった」で十分なのである。そのような書物を進化論や宇宙物理学に照らして解析する必要はないだろう。

 宇宙に始まりがあったということは、ビックバン理論と矛盾しないし、創造の順序も科学的事実と合っている。「地は..生ぜよ」という表現は進化論を暗示しているかもしれない。今まで述べてきたように進化論と創世記は矛盾しない解釈も可能である。
 しかし科学というものは新しい発見によって覆されることもあるので、断定すべきではないし、前述のように聖書、創世記のテーマから逸脱するような読み込みには慎重になるべきであろう。科学的事実にも謙虚に耳を傾け、独断的解釈を慎むべきだろう。
 神を信じる理由は他にもたくさんあるのだから。

バーナード・ラムの「聖書解釈学概論」でこう述べている。
 「聖書解釈と科学とは、ともに発展し、進歩してゆくものである。・・科学なしに創世記1章の科学的要素を解釈することは不可能である。」(p275)


偶然について

 創造論者が「私たちは意味も目的もなく、偶然に産まれたのではない」と言うと、感情的には動かされるものがある。確かに私たちが単なる偶然でこの世に存在するというならば人生は無意味に思える。神が目的をもって私たちを造られたというメッセージは生きる勇気を与えてくれる。
 一方、進化論者は「このような偶然の積み重ねでここまで進化した人間には、それだけ価値がある」と言うが、それは個人に希望を与えるものではない。

 しかし考えれば、私たちは多くの偶然に支配されている。そもそも数千万の精子の中から「偶然」卵子と結合した1つの精子により私は産まれた。人生の様々な岐路にも偶然が作用している。しかし、神にとって偶然は無い。神は偶然に左右されたりはしない。したがって進化が偶然に起こったことと、神が私たちを目的をもって造られたということは次元の異なる問題である。

 進化論については「偶然」の積み重ねで高等生物ができるのは確率論的に不可能だという主張がある。しかしダーウインが述べるように、進化は偶然のみではなく、それを保持する必然、すなわち自然淘汰によるものだ。遺伝子の突然変異という偶然が、生存に有利であれば、子孫に遺伝し保持されていく。DNAが発見されてこのメカニズムはより明確になった。

 ケンブリッジ大学の理論物理学者であり神学者であるJ・ポーキングホーンは、新しいものを生み出すには、偶然が必要であり、宇宙や生物の進化は、偶然と自然法則に従う必然の双方が必要だと述べ、偶然は神が与えた自由の徴だと言う。(「科学者は神を信じられるか」P65−71)神は世界を決定論的に造ったのではなく、偶然に任せたと言える。

 偶然という言葉を無神論的にとらえる必要はない。


エントロピーの法則

 創造論者が良く使うのがエントロピーの法則(熱力学の第二法則)である。熱は必ず冷める、秩序あるものは必ず無秩序の方向に向かう、逆はあり得ない、だから進化はあり得ないという。

 しかし、これは外部からエネルギーの供給が無い閉じた系内での法則である。地球には絶えず太陽からエネルギーが注がれている。そのエネルギーにより、海水は蒸気となって上に昇り(これは明らかにエントロピーの法則に反している!?)やがて雨になる。植物は成長し、子供は背が伸びる。(これもエントロピーの法則に反している!?)

 この太陽からのエネルギーにより生命は産まれ、成長し生きていける。進化のエネルギーにも十分なり得る。そして閉じた系で働くエントロピーの法則も生命には欠かせない法則である。

進化論は科学ではない?

 「進化論は科学ではない」とも言われる。科学とは繰り返し実験で検証できねばならないので、再現できない進化は科学ではないという。
 しかし一方でダーウィンは進化論を科学にしたとも言われる。彼の方法は「仮説演繹法」と呼ばれる科学的手法である。これはある仮説を立て、それが真実であればこうであるはずだと予測される現象を証明することで、その仮説を証明する方法である。
言い換えれば、具体的な現象をより正しく合理的に説明できる仮説がより良い仮説であるということになる。進化論という仮説は、現存する生物の多様性をうまく説明できるとダーウィンは考えた。そしてそれは、神が個別に生物を創造したという仮説よりも優れているとしたのである。

 また「進化論は事実ではなく単なる仮説だ」という主張もあるが、再現できないことに関しては仮説しかありえないのである。過去の事実は証明できない。したがって仮説か事実かではなく、どの仮説がもっともよい仮説かということしか科学は言えないのである。自然科学においては「理論」は究極的にはすべて仮説であるということもできる。ただし「検証された仮説」である。創造論者が言う「進化論は事実ではなく仮説である」というのは、その意味では正しいのだが、進化論には何の打撃も与えないスローガンである。

 前にも引用した山中教授と益川教授の対談(「大発見」の思考法 文春新書)の中で、両者が「進化論は証明されていないので、これを信じるのもある意味怖い」という発言をしている。確かに物理学と違って進化は実験で再現できない。従って物理学者に言わせると証明されていないことになるのだろう。しかし進化論は、前述のように科学的な手法で証明することも可能ではないだろうか。ゲノム解析では、ヒトと猿が同じ祖先を持つことを証明した。

 物理学の証明の定義から言えば、進化論も聖書も証明できない事柄なのかもしれない。物理学のように観測と数学によって答えが出せない点では同じだ。しかしそれだけが科学的合理的証明方法ではない。進化論は前述のように「仮説演繹法」という方法があるし、聖書の場合は歴史的検証法や文献批評等のきちんとした科学的検証法が存在する。益川教授やドーキンスが主張するような「自然科学だけが真理を探究する唯一の方法」ということはない。

 この点において創造論は、科学的には検証されていない不確かな仮説なのである。要するに、創造論は科学の問題ではなく信仰の問題であり、聖書の特定の解釈から科学を論じようとする間違ったアプローチである。

 ダーウィンも神の存在などを議論している訳ではない。進化論と聖書、信仰は対立するものと考える必要はない。

「生存競争」?

 進化論について、強いものが生き残るとか、生存競争、適者生存とかいうことばが使われることがある。これらの言葉から優勢主義、人種差別、障害者蔑視などが連想され、心理的に進化論を嫌悪する要因になっている。実際、そのように進化論を悪用した例もある。

 しかし本質的にこれらの概念は進化論には無い。
「種の起源」の第4版までは、「適者生存」という言葉は使われていなかった。これは社会進化論の提唱者である哲学者のハーバート・スペンサーが1864年に発案した造語である。
この考え方を知ったダーウィンは「種の起源」の第5版の第4章「自然淘汰」を「自然淘汰、または適者生存」とした。

ウキペディアには以下のようにある。

一般的に言って、「適者生存」における「適者」とは、この造語の発明者であるスペンサーにおいては個体の生存闘争の結果であるのに対し、ダーウィンの自然選択説では個体それぞれに生まれつき定められている適応力に重点が置かれる。これは、進歩的社会思想と進化論を同一次元で考えたスペンサーが進化の原動力を個人の意識的な努力に求めたがったのに対し、ダーウィンの自然選択説は本質的に決定論的であり、個体それぞれの生存闘争は確率論的な地平に取り込まれるべき理論であることを意味する。

「子孫を残そう」とか、「同じ遺伝子を増やそう」とか、「生き残ろう」とか、「生存競争を勝ち抜く」とか、そんな意志は生物にはない。遺伝子レベルになればなおさらだ。

結果として子孫を多く残したり、利他行動で同じ遺伝子を持つものを助けることができた生物の有利な特徴が遺伝して、結果として生き残ったということではないだろうか。
そこには意志も、目的も、方向性も無い。偶然の積み重ねしかない。
進化論者は、往々にしてこのように進化に方向性や意思があるような表現をすることがあるが、誤解を招くのではないかと思う。

また一般に「強いものが生き残る」という誤解があるが、正しくは「適応したものが生き残る」のである。

生物の不完全性と残虐性

 神が直接生物を造ったのであれば、それほど完全ではない生物の機能について説明ができない。
 人間の眼には構造上の制約により盲点が存在する。しかしイカやタコには盲点は無い。この点ではイカやタコのほうが優れている。
 生物同士の残虐な行為も神が直接造られたとしたら納得がいかない。創造論者はそれを人間の罪の結果とするが、人間の罪によって一度造られた自然界の仕組みが大きく変わってしまうことは考えにくい。

 有限で不完全なこの世界は神の設計の不完全さではなく、自然選択の結果であると考えることができる。

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